タイムスリップできる傘

第一章 ミー先生の不思議な傘

天気……秋の気配が日ごとに色濃く感じられるようになってきた。日中の温度もそれほど上がらず、朝晩は少し肌寒く感じられるようになった。初夏に翠湖公園の花壇のなかで白い花を咲かせていたクチナシは、しぼんでしまい、芳香は、もう、感じられなくなっていた。ジャスミンや夜来香のかぐわしいかおりも、だんだん薄れていっていた。

唐の時代からタイムスリップしてきた仙女のミー先生がタイムスリップできる不思議な傘を持っていることを知ってから、ぼくはミー先生のことがずっと心にかかっていた。ミー先生が飼っているシャオパイと、ぼくは友だちだから、いつかまたミー先生とシャオパイが住んでいる郊外の高級住宅地へ行って、ミー先生がどんな人なのか、もっと知りたいと思うようになった。
ミー先生のことをいろいろと想像しながら、朝早く、いつものように翠湖公園のなかを散歩していると、向こうから親友の老いらくさんがやってきた。
「やあ、笑い猫、元気か。すっかり秋らしくなってきたな。夏の間、咲き誇っていたベニバナはもう枯れてしまったし、クチナシは、もうにおわなくなった。ジャスミンや夜来香のにおいも、ほとんど感じられなくなった。わしは花のにおいをかぐのが大好きだから、今の時季は少し寂しいよ」
老いらくさんが、やるせない顔をしながら、そう言った。
「ぼくも同じです。でももうしばらくしたら、モクセイの花がにおうようになりますから、そのときを楽しみにして待ちましょうよ」
ぼくはそう答えて、沈んでいる老いらくさんを慰めた。
「そうだな。この公園では季節の移り変わりにつれて、さまざまな花のにおいをかぐことができるので、わしはとても幸せに感じている」
老いらくさんがそう言った。
「ぼくもそう思います」
ぼくは老いらくさんの話にあいづちを打った。
「花のにおいと言えば、シャオパイのうちの花壇には夏にラベンダーの花が咲いていて、かぐわしいにおいを、はなっていたなあ。覚えているか」
老いらくさんがそう聞いた。
「もちろん、覚えていますよ」
ぼくはそう答えた。老いらくさんが、シャオパイのうちにある花壇のことを口にしたのは、もしかしたら老いらくさんも、心のなかで、ミー先生のことがずっと気にかかっていたからではないだろうかと、ぼくは思った。
「あのラベンダーの花のにおいも、もうしなくなったのだろうか」
老いらくさんが、ぽつりとそう言った。
「さあ、どうでしょう」
ぼくはそう答えた。
「季節がよくなってきたから、これから久しぶりにシャオパイのうちへ遊びに行ってみないか」
老いらくさんがそう提案した。
「いいですね。秋のすがすがしい空気を吸いながら、郊外までハイキングに行きましょう」
ぼくは老いらくさんの提案にすぐに同意した。
それからまもなく、ぼくと老いらくさんは翠湖公園を出て、郊外にある高級住宅地を目指して歩を進めていった。町の大通りや路地を幾つも渡って、一時間ほど歩いたころ、前方にミー先生とシャオパイが住んでいる閑静な高級住宅地が見えてきた。
ミー先生とシャオパイのうちの前に着くと、前庭に花壇があって、そのなかで、やや盛りを過ぎてはいたものの、ラベンダーのかぐわしいにおいが、まだ少し残っていて、芳香が鼻のなかに優しく漂ってきた。
「シャオパイ、いるか」
ぼくは家のなかに向かって、声をかけた。ぼくの声を聞いてシャオパイがすぐに玄関から出てきた。
「笑い猫のおにいちゃん、久しぶりですね」
シャオパイが、嬉しそうな顔でそう言った。
「元気だったか」
ぼくが機嫌を伺うと、シャオパイが、えも言われぬ顔をした。
「どうしたのか。何かあったのか」
ぼくは心配になって、聞き返した。
「元気は元気だけど、飼い主さんが、長い旅に出て留守なので、寂しくて……」
シャオパイがそう答えた。
「そうか。それは寂しいだろうな。おまえの気持ちがよく分かるよ」
ぼくはそう答えた。
「よかったら、うちのなかに入って、しばらく休んでいかない?」
シャオパイがそう勧めた。
「いいのか?」
ぼくは、ためらいながら、そう聞いた。
「いいよ。笑い猫はぼくの友だちだし、飼い主のミー先生も、笑い猫のことを好きだから」
シャオパイがそう答えた。それを聞いて、ぼくは以前、このうちに来たときのことを思い出した。ミー先生が、バラの香りがする紅茶を飲みながら、桜餅を食べているときに、ぼくはたまたま訪れたので、ミー先生は、ぼくにも桜餅をごちそうしてくれた。ぼくが感謝の気持ちを伝えるために、にっこりと笑みを浮かべると、ミー先生はびっくりしたような顔をして
「笑える猫を初めて見たわ」
と言って、ぼくの頭を優しくなでてくれた。あのときのミー先生の手の温かさを、ぼくは今でもはっきりと覚えている。
家のなかに入る前に、後ろを振り返って、老いらくさんに
「しばらくここで待っていてください」
と言って、玄関の外で待たせることにした。老いらくさんを家のなかに入れると、何か食べ物を見つけてかじったりする恐れがあるからだ。
「分かった」
老いらくさんは少し不満そうな顔をしたが、素直に、ぼくの言うことを聞いてくれた。
家のなかに入ると、玄関のすぐ横に傘立てがあって、そのなかに、あの不思議な傘があるのに、ぼくは気がついた。
「ミー先生は傘を持っていかなかったのか?」
ぼくはシャオパイに聞いた。シャオパイがうなずいた。
「そうか、置いていったのか」
ぼくはそう言って、傘をじっと見ていた。
「傘に、ちょっと触ってもいいかな?」
ぼくはシャオパイに聞いた。
「いいよ。でも絶対に壊さないでよ。ミー先生の大切な宝物だから」
シャオパイがそう言った。
「分かった。注意深く取り扱うよ」
ぼくはそう答えてから、傘立てのなかから、傘を口でくわえて、引っ張り出した。
この傘を使って、ミー先生が空を飛んでいるところを見たことがあったし、唐の時代からタイムスリップできたのも、この傘のおかげだということを、ぼくは知っていた。
(どんなしくみで、そのようなことができるのだろう)
と、ずっと思っていたぼくは、この傘に隠された秘密を知るための、またとないチャンスがやってきたと思って、嬉々としていた。
傘はビニール傘ではなくて、竹で骨組みが作られていて、雨をはじくための油紙を張った唐傘だった。傘を口にくわえると、伝統の重さがずっしりと伝わってくるように感じられた。傘の軸には、ボタンが幾つかついているのが分かった。そのボタンを押すことによって、空を飛んだり、タイムスリップできるのではないかと、ぼくは思った。どのボタンを押したらどうなるのか、ぼくにはさっぱり見当もつかなかったから、とりあえず一番下のボタンを押してみることにした。すると押した途端、傘がぱっと開いた。そのあと下から二番目のボタンを押してみた。すると傘紙がスクリーンのようになって、傘紙の上には昔の風景が、ぼんやりと映し出された。それを見て、そのボタンは過去へタイムスリップできるボタンであることが分かった。昔の何かを見てみたいと思ったぼくは、しばらく考えてから、外で待っている老いらくさんの姿を見ることにした。老いらくさんは長い間生きてきているので、昔の風景のなかにも出てくるかもしれないと思ったからだ。
傘紙を見ながら、ぼくは
「老いらくさんの昔の姿を見たい」
と言って、傘をくるくる回した。するとしばらくしてから、傘紙の上に、恐ろしく陰険な顔つきをしたネズミの姿が映し出された。よく見ると、それは紛れもなく老いらくさんだった。ぼくと初めて出会う前の血気盛んなころの老いらくさんは、邪悪で狡猾なところが顔全体にあふれていて、近寄りがたいような雰囲気をしていた。でも鬼のような形相で激しく怒ったあとには、ごくわずかながら寂しさや善良さが垣間見えないこともなかった。ぼくが知らなかった老いらくさんの別の顔を初めて知って、ぼくは戸惑いの色を隠せなかった。老いらくさんのこのような怪しげな姿かたちをこれ以上見たくなかったので、ぼくは傘の軸についているボタンのなかから下から三番目のボタンを押した。すると哲学的な顔をした今の老いらくさんの姿が傘紙のなかに映っていた。それを見て、ぼくはほっとした。
ぼくはそのあと傘をいったん閉じてから、再び開いて
「今度はシャオパイの昔の姿を見たい」
と言って、傘を、くるくる回した。するとしばらくしてから傘紙の上に、シャオパイの姿が現れた。ミー先生に飼われたり、ぼくと知り合う前の若い頃のシャオパイだった。その頃のシャオパイは飼い主のいない野良犬だった。毛の色は汚くて、体はやせていて、目はおどおどしていて、何かにおびえているような顔をしていた。シャオパイのこのような惨めな姿かたちもこれ以上見たくなかったので、ぼくは傘の軸についているボタンのなかから下から三番目のボタンを押した。すると今の親しみやすいシャオパイの姿が傘紙の上に映っていた。ぼくはそれを見て、ほっとした。
それにしても、ぼくがよく知っている老いらくさんやシャオパイは、どちらも社交的で、付き合いやすい動物なので、まさかこんな過去があったとは思ってもいなかった。
ぼくがぼんやりしているのを見て、シャオパイがけげんそうな顔をしながら
「笑い猫、気が抜けたような顔をしているけど、どうしたの?」
と聞いてきた。
「不思議なものが見えたので、息をのんで見入っていた」
ぼくはそう答えた。
「不思議なものって何?」
シャオパイがさらに聞いた。
「おまえの若い頃の姿も見えた」
ぼくはそう答えた。それを聞いてシャオパイが複雑な顔をした。
「ぼくの若い頃は……」
シャオパイが言いかけて、そのあと口をつぐんだ。
「いいよ。言わなくていいよ。ぼくが知っている今のおまえでいいから」
ぼくはシャオパイに、そう言った。
「それよりも、ぼくが今思っているのは、ミー先生のように、この傘を使って空を飛べたらいいなあということだ」
シャオパイに過去の話を根ほり葉ほり聞いて、シャオパイの心を沈ませないために、ぼくは話題を変えて、そう言った。
「空を飛びたいのだったら外に出ないとだめじゃないの?」
シャオパイがそう言った。
「そうだね。家のなかにいては空に上がることはできないよね」
ぼくはそう答えた。
それからまもなく、ぼくは傘を閉じてから、口にくわえて外に出た。玄関の近くで老いらくさんが待っていた。
「笑い猫、それはミー先生の傘だろう。どうするつもりだ?」
老いらくさんが聞いた。
「ぼくもミー先生のように、この傘を使って空を飛べないかなあと思って」
ぼくはそう答えた。
「どうやって飛ぶのだ?」
老いらくさんが聞いた。
「ぼくにもよく分からないけど、傘を開いてから、傘の軸についているボタンの、どれかを押したら飛べるのではないかと、ぼくは思っている」
ぼくはそう答えた。
それからまもなく、ぼくは一番下のボタンを押して傘を再び開いてから、傘の軸についているボタンを、いろいろと押してみることにした。下から二番目のボタンは過去にタイムトラベルするためのボタンで、下から三番目のボタンは現在へ戻るためのボタンであることが分かったから、その上のボタンは未来へいくためのボタンではないかと思って、一つ飛ばして、下から五番目のボタンを押してみることにした。やはりぼくが思っていた通りだった。ボタンを押したとたんに、傘は空飛ぶ舟のようになって、ぼくを乗せて、地面から、ふわふわと浮き上がっていって、あれよあれよといううちに、屋根よりも高いところまで上がっていった。シャオパイと老いらくさんが目を丸くしながら下から見ているのが分かった。高く上がるにつれて、シャオパイの姿は点のように小さくなった。老いらくさんの姿は、小さすぎて、もうほとんど見えなくなっていた。シャオパイが住んでいる家はおもちゃ箱のように小さく見えた。傘の柄を握りながら、ぼくは空を、ふわふわと飛んでいった。少しも怖くはなかった。どこへ飛んでいくのか、ぼくには見当もつかなかった。でも心地よい秋風に吹かれながら、イワシ雲が広がっている空のなかを、仙人のように優雅に飛んでいくのは最高の気分だった。下を見ると、この町の全体の景色が一目で見渡せた。ぼくや妻猫が住んでいる翠湖公園も見えた。翠湖公園は町の中心部にあって、周りを緑で囲まれた美しい公園だから、この町に住んでいる人たちや、動物にとってのオアシスとなっている。その美しい翠湖公園を空から見ることができて、ぼくはひとしお感慨深いものを覚えていた。
傘が翠湖公園の上空にさしかかったとき、ぼくは傘の軸についている下から五番目のボタンについているひもを下に引いた。すると傘はゆっくりと落下傘のように降下していった。傘はやがて翠湖公園の湖畔に着いたので、今度は下から六番目のボタンを押した。すると傘はダチョウのように地上を走り出した。傘の柄の先を、ぼくは、ぼくと妻猫が住んでいる家の方向へ向けた。すると、傘は、ぼくのうちがある方向へ向かって矢のような勢いで走っていった。うちの前に着くと、ぼくは傘を閉じてから、口にくわえて、うちのなかに持っていった。妻猫は留守だった。天気がいいので、どこかへ散歩に出かけたのかもしれないと、ぼくは思った。傘をすぐにシャオパイのうちへ返しに行くべきかどうか、ぼくは少し考えた。しかし、ミー先生は、まだしばらくはうちへ帰らないようだったから、しばらく借りてから返しに行くことにした。ぼくは傘をベッドの下に置いた。
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