タイムスリップできる傘

第二章 妻猫の過去と将来

天気……秋になってから、ほとんど一日おきに雨が降ったりやんだりしている。秋雨前線が停滞しているからだろうか。一雨降るごとに秋がさらに深まっていくように感じる。今日は一日中、雨が降ったりやんだりしていた。夕方になってやっと雨が上がって、夕日の残光で西の空が少し明るく見えた。

今夜は一晩中、よく眠れなかった。ベッドの下に置いている傘で見た不思議な光景が鮮明に頭のなかに残っていて、眠りを妨げていたからだ。
「お父さん、どうかしたの。何かあったの?」
何度も寝返りを打っているぼくを見て、妻猫がけげんそうな顔をして聞いた。
「どうもしないけど、目がさえて眠れないのだ」
ぼくはそう答えた。
「何かあったのね。隠さないで、わたしに話して」
妻猫がそう言った。
妻猫に感づかれて、ぼくは話そうか、話すまいか、しばらく迷っていた。でも妻猫が、
じりじりしたような顔をしながら
「話してくれないと、わたしも気になって眠れない」
と言ったので、妻猫に押し切られるような形で、ぼくはベッドの下に置いている傘のことを妻猫に話すことにした。ベッドの下から傘を取り出して、妻猫に見せると、妻猫は珍しそうな顔をしながら
「普通の傘とは違っていて、竹で骨組みを作ってから油紙を貼った昔風の傘ですね」
と言った。
「そうなのだ。この傘は、持ち主であるミー先生が唐の時代から持ってきた傘かもしれない」
ぼくはそう答えた。
「ミー先生は今、どうしているの。お父さんにこの傘を貸してくれたの?」
妻猫が聞いた。
「ミー先生は今、どこか遠い所に旅に出ている。まだしばらくは帰らないようだから、しばらく借りていても大丈夫だと思う」
ぼくはそう答えた。
「その傘が、お父さんを眠れなくしているの?」
妻猫が聞いた。
「そうなのだ。この傘はとても不思議な傘で、傘の軸についているボタンを押したら、過去が見えたり、空を飛んだり、地上を走ったりすることができる奇怪な傘なのだ。この傘のことを思っていたら、目がさえて眠れなくなって……」
ぼくは、あっけにとられたような顔をしながら、そう答えた。
「そうだったの。どんなものが見えたの?」
妻猫が興味深そうな顔をしながら、聞き返してきた。
「ミー先生に飼われる前のシャオパイの姿が見えた」
ぼくはそう答えた。
「どんな犬だった?」
妻猫が聞いた。
「飼い主のいない野良犬だった。毛の色は汚くて、体はやせていて、目はおどおどしていて、何かにおびえているような顔をしていた」
ぼくは傘紙のなかに映し出されたシャオパイの姿を、そのまま話した。
「そうだったの。わたしたちが知っているシャオパイの姿とはまったく違うね」
妻猫がそう言った。ぼくはうなずいた。
「ぼくが知っているシャオパイは、きれいで品のある犬だから、まさか、こんな犬だったとは思ってもいなかった」
ぼくはそう答えた。
「この傘を使ったら、わたしの過去も見ることができるのかしら」
妻猫がそう言った。
「たぶん見ることができるのではないかと思う」
ぼくはそう答えた。
それからまもなく、ぼくは傘を開いて、傘の軸についている下から二番目のボタンを押してから
「妻猫の母親のころの姿を見たい」
と言って、傘をくるくる回した。するとしばらくしてから傘紙の上に、妻猫の母親のころの姿が映し出された。四匹の子猫が、妻猫のおなかの近くで腹ばいになっていて、懸命にお乳を吸っていた。幼くして世を去ったシャオカレイも、そのときはまだ生きていた。そのあと場面が変わって、シャオカレイが世を去って悲嘆に暮れている妻猫の姿が映し出された。ぼくは見るに忍びなくなったので、いったん傘を閉じてから、再び開いて、下から二番目のボタンを押してから
「妻猫がぼくと結婚したばかりのころの姿を見たい」
と言って、傘をくるくる回した。するとしばらくしてから傘紙の上に、ぼくと妻猫が結婚式を挙げた場面が映し出された。翠湖公園のなかにある芝生の上で、ぼくたちは結婚式を挙げていた。あのときの場面を再び、こうして見ることができるとは思ってもいなかったので、ぼくは嬉しくもあり、懐かしくもあった。妻猫の介添えは地包天がしてくれた。ぼくの介添えはシャオパイがしてくれた。ぼくと妻猫は芝生の中央に設けられたステージの上で愛の誓いを立てていた。よみがえってきた感動にしばらく浸ったあと、ぼくは傘を閉じて、そのあと再び傘を開いて
「ぼくと知り合う前の妻猫の姿を見たい」
と言ってから、傘の軸についているボタンのなかから、過去へタイムスリップするボタンを押した。傘をくるくる回すと、しばらくしてから、傘紙の上に時計台が映し出された。時計台のなかに、母親に抱かれた子猫がいた。この子猫こそ、生まれたばかりの妻猫の姿だった。妻猫が時計台のなかで生まれたことを、ぼくは今、初めて知った。妻猫の母親は、妻猫を産んでからまもなくこの世を去ったので、時計台のなかで、か細い声で弱弱しく鳴いていた妻猫に気がついた町の人たちが、かわいそうに思って、毎日、入れ替わり立ち替わりやってきて、妻猫にミルクや食べ物を与えていた。冬になって寒くなってきたときには、妻猫が風邪を引かないように綿の入った小さな掛け布団を作って持ってきてくれる人もいた。妻猫は生まれてからまもなく親を失うという不遇な境遇にあったものの、町の人たちの優しさや愛に囲まれて育っていたので、妻猫はその後もずっと町の人たちに厚い恩を感じていた。ぼくが知っている妻猫はとても優しくて恩義を重んじる猫だが、妻猫のそういった性格の形成は幼い頃の経験に基づいて出来あがったのではないかと、ぼくは思った。
傘紙に映し出された妻猫の姿は、その後、さらに変わり、妻猫が時計台のなかで、振り子のひもを引いて鐘を鳴らしている姿が見えた。夕方五時のサイレンが鳴るのに合わせて、鐘を鳴らして、町の人たちに『今日も一日、ご苦労様でした』と言って、ねぎらいの言葉をかけているように見えた。それを見て、ぼくは思わず胸のなかが熱くなった。
それからまもなく、ぼくは傘を閉じて、妻猫を抱きしめた。
「お父さん、どうしたの。急にわたしを抱きしめて」
妻猫がけげんそうな顔をしていた。
「びっくりさせて、ごめん。あまりにも感動的なお母さんの姿を見たので、お母さんは何て優しい猫だろうと思って、いとおしくてたまらなくなったから」
ぼくは妻猫に、そう答えた。
「わたしのどんな姿を見たの?」
妻猫が聞いた。ぼくは傘紙のなかに映し出された妻猫の過去の姿を話した。ぼくの話を聞いて、妻猫はびっくりしたような顔をしながら
「まさにその通りだわ。わたしの過去の姿が見えるなんて、何と不思議な傘なのでしょう」
と言った。ぼくはうなずいた。
「お父さん、わたしの将来の姿も見えるのかしら」
妻猫が聞いた。
「見えるかもしれない」
ぼくはそう答えた。
「だったら見てみて。わたしが将来、どうなるのか知りたいから」
妻猫がそう言った。
「分かった。ためしてみるよ」
ぼくは傘を開いて、傘の軸についている下から四番目のボタンを押してから
「妻猫の十年後の姿を見たい」
と言って、傘をくるくる回した。するとしばらくしてから傘紙の上に、初老になって体の動きが鈍くなり、毛の色もきれいではなくなった妻猫の姿が映し出された。それを見て、ぼくの顔色は曇った。妻猫がぼくの表情を見て取って
「年を取った、わたしの姿やかたちは見る影もないほど、みすぼらしくなっていたのね」
妻猫が寂しそうに、ぽつりと、そう言った。それを聞いて、ぼくはすぐに
「そんなことはないよ。ぼくの心のなかでは、いつになっても今と変わらないきれいなままのお母さんだよ」
と答えた。
「お上手ね。ありがとう。でも本当のことを言って。本当のことを知りたいから」
妻猫がそう言った。それを聞いて、ぼくは言葉を慎重に選びながら話した。
「そりゃあ、確かに、年を取ったら、若いときのように、しなやかに動きまわることはできなくなるし、容姿も衰えてくるよ。でもいろいろな喜怒哀楽の経験をしながら生きてきたことで、若いときにはない深くて達観した境地になっているよ」
ぼくはそう答えた。
「そうなのですか。だったら年を取るのも悪くはないですね。そのころのわたしは、どのような生活をしているのでしょうか」
妻猫が聞いた。それを聞いて、ぼくは再び傘を開いて、傘の軸についている下から四番目のボタンを押して
「妻猫の老後の姿を見たい」
と言った。するとしばらくしてから傘紙の上に、妻猫の老後の姿が映し出された。見たあと、ぼくは傘を閉じて、傘紙に映しだされた情景を妻猫に話して聞かせた。
「そのころのお母さんは、今と同じように、ぼくといっしょに、ここで暮らしているよ。シャオカレイのお墓の前に花を供えたり、魚味のするビスケットを置いて、幼くして世を去ったシャオカレイのことを偲んでいる」
ぼくはそう言った。シャオカレイのことに、ぼくが触れたので、妻猫は思わず涙をぽろぽろと流し始めた。
「かわいそうなシャオカレイ……、まだ生まれたばかりだったから、ビスケットを食べることはできずに、ひたすら、わたしのお乳ばかり飲んでいた……」
妻猫が涙で顔をくしゃくしゃにしながら、そう言った。
「シャオカレイが世を去ったあと、お母さんはご飯を食べる元気もなくて、毎日、お墓の前で泣き伏していた」
あのときのことを思い出して、ぼくがそう言うと
「そうでしたね。今でもシャオカレイのことを思うと、涙もろくなってくる。わたしの心のなかにはシャオカレイのあどけない姿が今でもはっきりと残っているわ」
妻猫がそう言った。話が湿っぽくなってきたので、ぼくは話題を変えることにした。
「年を取ったお母さんは、サンパオに会いに行ったりもしていた」
ぼくはそう言った。サンパオは、ぼくと妻猫の三番目の子どもだ。サンパオは成長してからは目が見えないピアノ調律師の盲導猫となって働いていた。
「サンパオですか」
妻猫が聞き返した。ぼくはうなずいた。
「サンパオは、あの盲目のピアノ調律師の手となり足となり、忙しく働いていた」
ぼくはそう答えた。それを聞いて、妻猫は幸せに満たされたような顔をしていた。
「お母さんは、アーヤーにも会いに行っていたよ」
ぼくはそう言った。アーヤーは、ぼくと妻猫の二番目の子どもだ。
「アーヤーは、どうしていましたか」
お母さんが聞いた。
「アーヤーは養老院で、お年寄りたちのために歌を歌っていた」
ぼくはそう答えた。
「そうでしたか。アーヤーの歌を聞いて、お年寄りたちが元気で長生きしてくれたら、わたしも嬉しいわ」
妻猫がそう答えた。ぼくはうなずいた。
「お母さんは、パントーにも、会いに行っていたよ」
ぼくはそう言った。パントーは、ぼくと妻猫の一番上の子どもだ。
「パントーは、どうしていましたか」
お母さんが聞いた。
「パントーは自閉症のあるパオパオにまだ付き添っていた。パオパオは指揮者として子どものころから才能を発揮していて有名だったが、その後も指揮者としてますます活躍していた。自閉症はまだ治っていないので、パントーが傍にいないと寂しくてたまらないそうだから、どこへ行くときもパントーを連れていっている。パントーはピアノを弾くこともできるので、コンサートの余興としてステージの上で腕を披露することもある」
ぼくは妻猫にそう言った。それを聞いて妻猫は、誇らしそうな顔をしていた。
「子どもたちがみんな、それぞれの個性を十分に発揮して、社会に貢献しているのを知って、わたしはとても嬉しいわ」
お母さんがそう言った。
「子どもたちがみんな音楽にかかわりのある仕事を通して社会に貢献しているのは、お母さんの影響が大きいのだよ。お母さんは音感に優れた猫だから」
ぼくはそう言って妻猫の功績をほめてあげた。それを聞いて妻猫は、まんざらでもなさそうな顔をしていた。でも妻猫は謙虚な猫だし、ぼくを立てることも決して忘れない猫だから
「いえいえ、そんなことはないわ。子どもたちがみんな立派になったのは、すべてお父さんのおかげだわ」
と言った。ぼくはけげんに思ったので間髪を入れずに聞き返した。
「どうしてだい?」
「だってお父さんが、ほかの動物の言葉が話せたり、笑い顔を見せることができるおかげで、子どもたちはいい先生に師事して技術を習得したり、お父さんの笑い顔で人や動物の心を開くことができたのだから」
妻猫がそう言った。そう言われると、心当たりがないこともなかった。サンパオが盲導猫になれたのは、ぼくが盲導犬にサンパオの弟子入りをお願いしたからだ。アーヤーが歌を習得できたのは、ぼくが九官鳥に弟子入りをお願いしたからだ。パントーがパオパオと親しくなれたのは、ぼくの微笑みが自閉症の子どもであったパオパオの心を開いたからだ。そう思うと、ぼくと妻猫が持っている、それぞれの才能や特技が子どもたちにうまく受け継がれて花が開いたように感じた。むろん、成功した一番のキーポイントは、子どもたちがみんな一生懸命、努力したことにあると、ぼくは思っていた。
「こんなに立派な子どもたちに恵まれて、わたしたちは、この世で一番幸せな親かもしれませんね」
妻猫がそう言った。妻猫の顔は誇らしさにあふれていた。
「そうだね。この世にたくさんいる猫のなかから、お母さんと出会えて、結婚できて、素晴らしい子どもたちに恵まれて、ぼくは最高に幸せだよ」
ぼくはそう言った。
「わたしも同じだわ。この世にたくさんいる猫のなかから、お父さんと出会えて、結婚できて、素晴らしい子どもたちに恵まれて、わたしは最高に幸せです」
妻猫がそう言った。
「ありがとう」
ぼくは、にっこりと笑みを浮かべながら、そう答えた。
「わたしがもっと年を取ったら、どうなっているのでしょうか」
妻猫が不安そうな顔をしながら、ぼくに聞いた。それを聞いて、ぼくは傘をもう一度開いて傘の軸についている下から四番目のボタンを押してから
「妻猫の最晩年の姿を見たい」
と言った。するとしばらくしてから、目の前に大きな海が広がっている雄大な景色が傘紙のなかに見えてきた。大海原を見ながら、ぼくは妻猫に寄り添っていた。妻猫はもう歩くことができなくなっていて、車いすに乗ったまま、海を見ていた。海の上には船やヨットが浮かんでいるのが見えた。海はきらきらと輝いていて、水平線のかなたには顔を出したばかりの太陽が明るい光をはなちながら、海の色を朝焼けに染めて、ゆっくりと昇り始めていた。ぼくたちが住んでいる町には海はないので、ここはどこの景色なのだろうと思いながら、ぼくと妻猫は美しい海辺の光景に、魅入っていた。
「お父さん、見えましたか」
妻猫が聞いた。
「うん、見えたよ」
ぼくはそう答えてから、傘を閉じて、見えたばかりの光景を妻猫に話して聞かせた。
「そうでしたか。歩けなくなっていましたか」
妻猫が寂しそうに、ぽつりと言った。それを聞いて、慰める言葉がすぐには見つからなかった。
「年をとったら誰でもそうなる。ぼくだっていつかは……」
ぼくには、そう答えるのが精いっぱいだった。
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