【書籍化】死んだことにして逃げませんか? 私、ちょっとした魔法が使えるんです。

ニルス

二人がやってきて半年が過ぎた頃、横柄な態度の執事がミリアムの部屋を訪れ、旦那様がお呼びだと、執務室に連れて行かれた。

扉を開けて目に飛び込んできたのは、頬に生々しい鞭の跡を付けて口の端から血を流して蹲っている家令を、その傍に立ったヘンドリックスと鞭を持ったウルスラが睨み付けている光景だった。驚いたミリアムは思わず家令に駆け寄って抗議した。

「一体何があったというのです! このような暴力は看過できません」

鞭を持ったウルスラが憮然とした様子で言った。

「私に向かって、もうお金がないから買い物をするなだなんて生意気な事を言ったからよ。この家令は昔から居た者だから、貴方が私たちに嫌がらせをさせているんでしょう? これ以上痛めつけられたくなければさっさとお金を出させなさい」

ミリアムは家令の顔の傷にハンカチを当ててウルスラを毅然と見上げた。

「お金がないのは、貴方たちが毎日のように買い物をして湯水のように使うからです。お父様、そこにある未払いの請求書だけでも一年分の伯爵家の予算を超えていることが分かりませんか。目を覚ましてきちんと見てください」

ヘンドリックスがそばに積まれている請求書の山に目を向けている事に気付いたミリアムが語りかけると、彼は請求書の束を手に取って確認し始めた。

「ねえ、旦那様、今度のガーデンパーティー用に、どうしても新しいドレスと宝石を買わなくちゃいけないの。この間よりももっと豪華な装いにしなければ、私たちはまた笑いものになってしまうわ」

ウルスラは、請求書をめくるヘンドリックスの手を押さえて甘えたように話しかけるが、ヘンドリックスは請求書に目を落としたまま確認し続けている。
ミリアムはウルスラに向かって訂正した。

「招待されてもいないガーデンパーティーに行くから笑いものになるのです。次回の招待状だって貴方たちに贈られたものではないでしょう?」

ミリアムの言葉にカッとなったウルスラは、請求書から顔を上げないヘンドリックスの手を掴んで無理やり自分の方へ向け、涙を浮かべて訴えた。

「またあの娘が私をこんな風に侮辱するのよ。招待状も自分の物だと言って取り上げるつもりだわ。私もヨアンナもとても楽しみにしていたのに、ひどいわ」

ウルスラの涙に濡れる目を見たヘンドリックスは、請求書の束を取り落し、怒りの表情でミリアムに近寄ると手を振り上げた。
ああ、叩かれるのだ。ミリアムは、感情を露わに自分に手を上げようとする父の顔を、こみ上げる悲しさを湛えた瞳でじっと見つめた。
すると、ヘンドリックスの動きが止まり、高く上げた手がミリアムに振り下ろされることはなかった。
ミリアムが打たれると確信してほくそ笑んでいたウルスラは、動きを止めたヘンドリックスの顔を怪訝な顔で覗き込んで腕を掴んでゆすっている。

「しっかりしてください、旦那様。一体どうしたのですか」

我に返ったようにウルスラと請求書を交互に見たヘンドリックスは、ウルスラに言った。

「金がないのは本当の様だ」
「そんな! 貴族なのにお金がないなんておかしいわ。私はもうドレスも宝石も買えないの?これじゃ伯爵夫人として誰にも認めてもらえないわ」

はらはらと涙を流すウルスラを見て、ヘンドリックスは慌てた様子で宥め始めた。

「領地の資金を回せば何とかなるだろう。領地から追加の税金を徴収すれば良い。それに、特産品の生糸だけで収益は上がるのだから、織物工業は閉鎖してしまえばそこに掛かる費用もこちらに回せる。すぐに手続きをしろ」

「旦那様! それでは領地が立ち行きません」

顔色を変えて訴える家令をヘンドリックスは睨み付けて言った。

「哀れなウルスラとヨアンナのためだ。黙って言う通りにしろ」

そう言いつけると、ヘンドリックスは、甘えるように腕を絡めるウルスラに、あの蕩けるような顔を向けて執務室を後にした。

「…あの織物工場は…」

そう呟く家令の手を取り、立ち上がらせて頬の傷に治癒魔法を施した。
目を瞠る家令に、ミリアムは寂し気な笑顔を向けて打ち明けた。

「私もお母様と同じ魔法使いなの。この位の事しか出来ないのだけれど…」

家令は治癒の礼を言うと、肩を落としたミリアムを慰めるように言った。

「アグネス様もお優しい方でした。私もいつまで置いて頂けるか分かりませんが、お嬢様の為に出来るだけのことはしておこうと思います。お嬢様、私たち以前からの使用人は、皆お嬢様のご恩を決して忘れる事はありません。どうかこれからは、ご自分の身を護る事を一番に考えてください」

そう言われ、ミリアムは顔を上げて笑みを返すだけで精いっぱいだった。
声を出せば涙が零れてしまう。そのまま執務室を出て部屋に戻った。

「あ、ミリアムおかえり。こっちだよ、こっち。ほら、ぼくだよ、ニルスだよ」

部屋に入るといきなり誰かから声を掛けられ、驚いて部屋を見渡していた時に、『ニルス』という名を告げられ、ハッとその方向へ目を向けた。
幼い頃に描いたガチョウに、母が『ニルス』と名前を付けていたことを突然思い出したのだ。そのニルスが、ぱたぱたと羽を動かしてしゃべっている。

「わあぁぁ!」

びっくりした。
いけない、淑女にあるまじき声を上げてしまった。慌てて口を押さえて、絵の側に居るポーリーに視線を移すと、ポーリーはばあやと同じ、にこにこ顔をニルスに向けながら言った。

「奥様のお手紙にあった『ニルス』が何か思い出して、先日クローゼットから出したのです。魔法をかけていないのにしゃべり出す物は、絶対にお嬢様には近づけないようにと、ばあやさんから言いつけられていましたので、ご報告が遅くなって申し訳ございません」

ニルスはポーリーをちらっと見てちょっと首を竦めて言った。

「やあ、やっとお話が出来るね! 今までずっとミリアムとお話したかったのにクローゼットに閉じ込められていたし、やっと出られたと思ってもそっちの侍女さんが怖い顔で見てるから話しかけられなかったんだ。でも、今は急いで伝えなきゃいけない事があるんだよ。だから許して?」

そう言ってぱたぱた羽を動かして続けた。

「さっきミリアムがお部屋を出た後に女の人が入って来て、そこの机の引き出しの奥に何か入れたんだ。『ふん、ざまあみろ』なんて言ってたから、急いで見た方が良いよ」

ポーリーが弾かれたように駆け寄って引出しを開けると、奥から大きなルビーの周りにダイヤモンドがあしらわれた、ごてごてしとした大きな金の指輪が出て来た。恐らくミリアムを泥棒に仕立て上げようとしているのだろう。ため息を吐いて眺めていると廊下が騒がしくなって来た。

「お義父様に買ってもらった大事な指輪な無いの。 きっとあの娘だわ。いつも羨ましそうに見ていたもの…」
「まあ、この家に泥棒が居るなんて!」

ヨアンナの涙声とウルスラの憤った声が扉の外から聞こえる。
指輪を持っているミリアムの顔から音を立てて血の気が引いていく。
このままでは確実に泥棒にされてしまう。

どうしよう。 そうだ、魔法!

でも、認識阻害では弱すぎる。触れられれば終わりだ。転移魔法は自分の魔力を残している場所にしか飛ばせない。そんな場所は今の所クローゼットの隅しかないから、それでは隠したことにならない。一体どうしたら…

すると、真っ青な顔で立ち尽くすミリアムの手から指輪を取ったポーリーが、急いでその指輪をミリアムの指に嵌めて頷いた。

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