『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第10章 「愛してるって言わない人」

 その夜――
 ペントハウスのリビングは、いつもより広く感じられた。

 間接照明の淡い光だけが、部屋の隅をぼんやりと照らしている。
 深い沈黙が、空気を重くしていた。

 志穂はコートを脱がず、扉のそばに立っていた。
 外気の冷たさがまだ残っていて、胸の奥のざわめきと混ざり合う。

(……帰りたくなかった。
 でも、帰らなきゃいけない家なんだ)

 スリッパを履こうとしゃがんだ瞬間――

「志穂」

 静かな声が背中に落ちてきた。

 振り向くと、
 ネクタイを外したままの悠真が、キッチンの入口に立っていた。

 手にはマグカップ。
 仕事帰りの疲れが残る表情。

 でも――その目だけは、志穂を真っ直ぐ追っていた。

「……帰るのが、遅かったな」

「……はい」

「連絡ぐらい入れろ。心配した」

「心配……?」

 胸の奥に、チクリと小さな痛みが走る。

「心配してくれるんですか? 私のこと」

「当たり前だ」

「どうして、“当たり前”なんですか?」

「……どういう意味だ」

 志穂は、ゆっくり立ち上がった。

(言いたくない。でも……言わないと、壊れたままになる)

「……私のこと、責任で気にかけてるんじゃないかって思うからです」

 悠真の眉がわずかに寄る。

「責任……?」

「政略結婚だから。
 “妻だから守る”って、そういう意味なんじゃないかって」

「志穂――」

「ねえ、悠真さん」

 志穂の声は震えていた。

「……私のこと、好きですか?」

「……」

 静寂が落ちる。
 時計の針の音だけが、遠くで小さく鳴る。

 志穂は、彼の沈黙に怯えるように続けた。

「もし……好きじゃないなら……
 ちゃんと言ってくれたら、私……」

「違う」

 低い声が遮った。

「君を、好きじゃないなんて……そんなことは、ない」

「……じゃあ、好きなんですか?」

「……」

 また黙る。
 その沈黙こそが、一番つらい。

 志穂の胸がきゅっと縮む。

「どうして答えてくれないんですか?」

「志穂――」

「ねえ、“好き”って……そんなに言いにくい言葉なんですか?」

 自分でも驚くほど声が大きくなった。

 悠真の目がわずかに揺れる。

「違う。……言いにくいんじゃない。
 軽く言いたくないだけだ」

「軽くなんて……望んでません」

「……」

「“好き”と言われたら、勘違いされそうで怖いですか?」

「そんなことは――」

「じゃあ、“愛してる”って言ってください」

 きっぱりと言った瞬間、
 部屋の空気が変わった。

 悠真の手がわずかに震える。

「志穂……おまえは知らないんだ」

「何をですか?」

「“愛してる”を軽く使った結果……壊れた夫婦を、俺は間近で見てきた」

 志穂は目を見開いた。

「言葉は、ときに武器になる。
 ……俺は、それを知ってる」

(悠真さん……)

「だから、言えないんですか?」

「違う。
 言えないんじゃなくて――
 言って、もし君を傷つけることになったら……それが怖い」

「私は……」

 言い返そうとした瞬間、苦しさが胸に広がった。

(どうして……そこまで思ってるのに……
 どうして私には“愛してる”って言ってくれないの?)

 涙が、ぽたりと床に落ちる。

「……ごめんなさい」

「志穂」

「もう……聞きたくありません。
 期待して、勘違いして、また傷つくの、嫌なんです」

 その言葉に、悠真は息を呑む。

 志穂はかぶりを振り、視線をそらした。

「……おやすみなさい」

「待て」

 腕をつかまれる。
 強く、けれど震えた手で。

「志穂。君のことを大事に思っている。
 それだけは、信じてほしい」

「……“大事”じゃ、足りないんです」

 静かに、でもはっきりと言った。

「私がほしいのは、“愛してる”という言葉なんです」

 悠真の手が、そっと離れた。

 一瞬だけ、彼の目が苦しさに染まり、
 けれど何も言えないまま――

 志穂は寝室へ向かう廊下を歩き出した。

 背中越しに感じる沈黙が、
 いつもより遠くて、冷たかった。
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