『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第12章 「写真の中の三人」

 志穂はひとり実家へ向かっていた。

 玄関を開けると、
 香水と紅茶が混ざったような、懐かしい匂いが迎えてくれる。

「志穂? 急にどうしたの」

 リビングから母が顔を出した。
 優しい笑顔なのに、その温度がいまは痛かった。

「……ちょっと、帰りたくなって」

「そう。ゆっくりしていきなさい」

 母は深く追究せず、
 温かいハーブティーを入れてくれた。



 志穂は、落ち着かない胸を抱えたまま、
 久しぶりに自室に入った。

 机の上には、学生時代のノート。
 クローゼットには、昔のワンピースが並んでいる。

 その隅に――
 古い家族アルバムが置かれていた。

(……見たら、少しは気が紛れるかな)

 志穂はアルバムを膝に置き、
 一枚目の透明シートをそっとめくった。

 春の庭で笑う真理。
 その背中に隠れるように、小さな自分。

 ページをめくるたび、
 姉と自分の距離のちがいが胸を締め付ける。

(私は――ずっと姉の後ろだった)

 そう思った瞬間、
 次の写真が目に止まった。

 真理が花冠を持ち上げて笑っている。
 その横に、幼い志穂。
 そして――

 志穂の頭をぽん、と撫でている少年。
 優しい目をしている。
 ――悠真だった。

(え……?)

 心臓が大きく跳ねた。

 写真の少年・悠真は、
 真理ではなく“志穂”を見ていた。

 しかも自分の髪に触れて、
 守るような、慈しむような……そんな手つきで。

(こんな写真……覚えてない)

 一枚、また一枚めくると、
 同じように、志穂のそばにいる少年の姿が映っていた。

・転びそうな志穂の手首を支える悠真
・真理の後ろに隠れる志穂の前に、じっと立つ悠真
・泣きそうになっている志穂の前で、膝を折って覗き込む悠真

 どれも、志穂は覚えていなかった。

 いや――覚えていないふりをしていたのかもしれない。



 そのとき、そっと母が部屋に入ってきた。

「懐かしい写真ねえ……」

「……これ、覚えてる?
 お姉ちゃんじゃなくて、私のほうを……」

 言葉が途切れた。

 母は「ええ」と微笑み、
 アルバムを覗き込んだ。

「悠真くん、昔からあなたのこと、よく見ていたのよ」

「……え?」

「真理はしっかりしてる子でしょう?
 だからほっといても大丈夫って思っていたのね。
 でも志穂は、優しい子で遠慮するから……
 “泣かないように守らなきゃ”って、よく言っていたわよ」

「……そんなこと、あるわけ……」

「本当よ。
 ほら、この写真、あなたの靴紐を結んであげてるの」

 言われて見ると、
 たしかに小さな志穂の靴紐を結ぶ少年。
 その指先は驚くほど優しい。

(嘘……私……そんな記憶……)

「志穂。
 あなたが気づかないくらい、
 あの子はずっとあなたのこと気にかけていたわよ」

「……っ」

 視界が滲んだ。



(じゃあ……どうしていまは……?
 どうして“愛してる”って言ってくれないの……?
 どうして私じゃなくて、お姉ちゃんに見える影で……
 私はこんなに傷ついてるのに……)

 胸の奥がぐしゃりと押し潰されそうになる。

(昔の私を……守ってくれていたのに……
 今の私は、傷つくことばっかり)

 涙がぽた、とアルバムに落ちた。

 母はそっと肩に手を置き、
 静かに言った。

「ねえ志穂。
 昔から、あの子はあなたを“守る側”でいたのよ」

(守る……側……)

 その言葉が刺さる。

 いまの悠真も、あの夜も、
 結局は“誰かを守っていた”。
 私じゃない誰かを。

 そう思った瞬間――
 胸がぎゅっと縮まり、涙がこぼれた。

(昔と違う……。
 昔は、私だったのに……)

 アルバムの中の三人は笑っているのに、
 現実の三人は噂に燃やされ、バラバラになろうとしていた。

 “写真の中の優しさ”が
 いまの自分には何より残酷だった。
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