『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第15章 「冷たい車内」

 パーティー会場を出ると、
 冬の夜風がひやりと頬を撫でた。

「……帰るぞ」

 短く言って、
 悠真は志穂の腕を軽く取った。

 強引ではない。
 けれど、離す気のない指の力だった。

 会場のスタッフに会釈をして、
 ふたりは夜の車に乗り込んだ。

 ドアが閉まると、
 世界が一気に静寂に変わる。

 エンジンの低い振動だけが響く。

 なのに空気は張りつめていた。



 しばらく、誰も口を開かなかった。

 後部座席の空気は冷えていて、
 志穂は自分の手を膝の上で固く握りしめた。

(……さっきの悠真さん……
 どうしてあんな顔を……)

 思い出すだけで胸が震える。

 肩に触れた武流の手を、
 悠真はあんなにも強く嫌った。

 触れただけで、
 あんな目を向けるなんて。

「……腕、大丈夫か」

 突然、前から低い声がした。

「え……?」

「さっき……強く掴んだ」

 志穂は少し遅れて、自分の腕を見た。
 悠真の指の跡が、うっすらと赤く残っていた。

「大丈夫です。痛くないから」

「……そうか」

 短い返事。
 でも、その声はどこか硬かった。

 違う。
 本当は、痛むのは腕じゃない。

(言いたいことはあるのに……
 どうして、言えないんだろう)



 沈黙が、また車内を支配する。

 やがて信号で車が止まった時、
 悠真がぽつりと言った。

「……あの男」

「武流くんのことですか?」

「名前はどうでもいい。
 ……なぜ呼んだ」

 前を向いたままの声。
 表情は見えない。

「呼んでません。偶然です」

「偶然じゃなかっただろ」

「じゃあ……何が言いたいんですか?」

「……」

「武流くんと話すの、だめなんですか?」

 そう言った瞬間、
 悠真の指がハンドルを握る音が強くなった。

「だめだ」

「っ……どうして……」

「——俺が嫌だからだ」

 その声は静かなのに、
 言葉は鋭く胸を打った。

 志穂は息を呑んだ。

「私は……ただ……
 誰かと話したかっただけです」

「俺とじゃ、だめなのか」

 静かだけど、ひどく真剣な声。

 志穂の心が大きく揺れた。

(ずるい……そんなふうに言うの……)

「悠真さんは……」

 

 沈黙。
 息を詰めたような静寂が流れる。

 信号のライトがフロントガラスに反射し、
 赤い光が二人を照らした。

「……他の男に頼ることだ。」

「頼ってなんか……」

「じゃあ、なんだ」

「……やさしくされたいだけです。
 誰でもいいわけじゃなくて……」

 声が震えていた。

「あの時みたいに……
 私にだけ優しくしてほしいのに……」

「……志穂」

 後部座席の暗がりの中で、
 悠真が振り返る。

 その目は、夜の光を映して揺れていた。

「……俺は、君を大切に思っている」

「じゃあ、……」

「俺は——」

 そこまで言ったとき、
 信号が青に変わった。

 悠真は言葉を飲み込み、
 再び前を向いた。

「……悪い。」

「そうやって……また黙るんですか?」

「……すまない」

 謝罪はあるのに、
 心は届かない。

 車は動き出した。

 距離は近いのに、
 心はまだ遠いまま。

(どうして……
 あと一歩が届かないんだろう……)

 夜の街を走る車内は、
 確かに近く、
 そして残酷なほど冷たかった。
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