『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』
第17章 「姉・真理の影」
朝の光がカーテン越しに差し込んでいた。
志穂はまだ枕に顔を伏せたまま、動けずにいた。
昨夜の激しい喧嘩で、心が擦り切れてしまったようだった。
(……私ばっかり……好きで……
私ばっかり苦しんで……)
胸の奥に残る痛みは、夜よりも重かった。
そんなとき、スマホが震えた。
『午後、近くまで行くから寄っていい? 真理』
姉・真理からのメッセージだった。
(……会いたくない……)
でも、断る理由も思い浮かばない。
志穂は短い返事を送り、重い体を起こした。
午後、チャイムが鳴る。
扉を開けると、上品なスーツに身を包んだ真理が立っていた。
美しく、柔らかく、誰もが憧れる“完璧な姉”。
「志穂、顔色悪いわね……大丈夫?」
「うん……ちょっと寝不足なだけ」
「最近、忙しいの?
それとも──悠真さんと、なにかあった?」
その言葉に志穂の肩がぴくりと震えた。
(なんで……こんな時に……)
真理は、悪意がない。
だからこそ残酷だった。
「志穂、あなた……
ずっと悠真さんのこと気にしてたよね?」
「……昔の話だよ」
「昔だけじゃないでしょ?」
真理は優しく笑う。
それが志穂には、胸を刺すように痛かった。
「ねぇ志穂。
ほんとは、まだ悠真さんのこと好きなんじゃない?」
(言えない。
好きなんて……言えない。
だって、姉は……)
姉はずっと前、気づいていなかっただろうが、
志穂は幼い頃から知っていた。
悠真が真理に向けていた、
あの憧れのような眼差しを。
ソファに座ると、真理は何気なく言った。
「悠真さん……昔から私にいろいろ相談してくれてたの。
進路のこととか、家のこととか……
よく家にも来てたでしょ?」
(知ってるよ……
私、いつも影から見てたんだよ……)
胸がぎゅっと痛む。
「真理……さ、ん……
悠真さんが昔、真理のこと……好きだったって……
知ってる?」
志穂は、言うつもりじゃなかった言葉をこぼしていた。
真理は驚いたようにまばたきする。
「……え?
え、ちょっと待って。
そんな話、初めて聞いたわよ?」
「ほんとに……?」
「本当に本当に、知らなかった。
だって悠真さんって、
どちらかというと……あなたを気にかけてなかった?」
「え……?」
志穂は顔を上げる。
真理は困ったように笑い、首を傾げた。
「ねぇ……知らなかった?
悠真さん、あなたの泣き声とかすぐ気づく人だったじゃない。
昔、迷子になった時も……
最初に気づいて走って行ったの、悠真さんだったでしょ」
(……そんなこと……
気にしてくれてたの……?)
「あと……志穂が熱を出した時、
お水取りに行ってくれたのも悠真さんで……」
知りたかった優しさ。
欲しかった言葉の“前の形”。
でもそれは、
今の苦しみを軽くするには足りなかった。
(じゃあ、なんで今は……
好きって言ってくれないの……?
どうして……あの時みたいに優しくしてくれないの……?)
志穂の目に涙がにじむ。
「志穂?……泣いてるの?」
「……ほんと、やだ……
なんで泣いてるんだろ……」
真理は慌ててティッシュを差し出す。
が、そのタイミングで玄関のドアが開いた。
悠真が帰ってきたのだ。
「ただいま──」
言葉が途中で止まる。
真理と、泣いている志穂。
その光景が目に飛び込む。
悠真の顔色が変わった。
「……何があった?」
「ち……ちがうの……
真理姉さんは悪くない……!」
志穂が慌てて否定したその瞬間、
真理が実に無邪気に言ってしまった。
「ちょっと昔の話をしてただけよ。
志穂が……悠真さんのことで泣いてたから」
悠真の瞳が、深く揺れた。
志穂は息が止まり、
真理はまだ何が起きているか気づいていない。
沈黙が、家中に広がる。
(やだ……
なんでこのタイミングで……
どうしてこんなところを見られるの……)
志穂の胸がぎゅっと縮んだ。
悠真の口元が強く結ばれる。
何かを言いたいのに言えず、
喉の奥で言葉が止められているようだった。
「……真理さん、すみません。
少し……志穂と話をさせてください」
低く静かな声。
けれどその目には――
焦り。後悔。そして、志穂を失いそうな恐れ。
真理は空気に気づき、慌てて帰り支度をした。
そしてリビングに残されたのは、
涙で目を赤くした志穂と、
何か大切なものを壊しそうな表情の悠真だけだった。