『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第18章 「誤解の連鎖(家を出る前夜)」

 夕方。
 真理が帰った後のリビングは、
 冷えきった空気と泣き跡だけが残っていた。

 志穂はキッチンの椅子に座ったまま、
 ゆっくり息を整えていた。

(……今日はもう、何も考えたくない)

 そう思っても、胸の奥の痛みは消えない。

 “好き”と言ってほしいだけなのに。
 でもそれが、どうしても言ってもらえない。

 その理由すら教えてもらえない。



 そのとき、足音が聞こえた。

 悠真が、静かにリビングへ入ってくる。

「……志穂」

 声は低く、震えているのが分かった。

 真理の前で流した涙を見られたこと。
 それを悠真がどう思ったか。

(嫌われた……?
 重いって思われた……?)

 不安が胸を締め付ける。

「さっきは……すまなかった」

 謝罪。

 それが逆に、志穂の心を深く刺した。

「謝るくらいなら……
 本当のことを言ってくれたらいいのに……」

「本当の……こと?」

「“好きじゃない”なら……
 はっきり言ってほしい」

 悠真の息が止まった。

「違う。志穂、それは違う」

「じゃあなんなの?
 どうして言ってくれないの?」

「俺は……」

 言いかけて、口を閉ざす。
 その沈黙に、志穂の心がひび割れた。

「言えないのは……
 本当に、私じゃだめだからでしょ?」

「違う」

「姉のほうがよかったから?」

 その問いに、
 悠真の瞳が大きく揺れた。

「……真理さんの話は、関係ない」

「じゃあどうして私には言えないの……!?
 姉には言えたことが、どうして私には言えないの……?」

 志穂の声が震える。
 目の奥が熱い。

「真理さんの前では……
 いつも笑っていたよね。
 優しくて……頼りがいがあって……
 あんなに自然に話してたのに」

「志穂、やめろ」

「私は?
 私はどうなの?
 あなたから見たら……ずっと“二番目”なの?」

 その言葉に、悠真は顔を歪めた。

「違う!!
 志穂、そんなふうに自分を言うな……!」

「じゃあ言ってよ……
 私はあなたにとって……
 なんなの……?」

「……」

 また沈黙。

 志穂の心は限界に達していた。

「どうして……
 どうして、私だけがこんなに怖いの……?」

「怖い?」

 志穂は泣きながら笑ってしまった。

「私のほうが怖いよ……
 好きって言ってくれないから……
 いつ終わるかわからなくて……
 あなたがどこを見てるかもわからなくて……
 私だけが必死みたいで……
 ずっと……ずっと怖かった……!」

 悠真は一歩近づいたが、
 躊躇したように止まった。

「……志穂。
 おまえを、失いたくないんだ」

「だったら言ってよ……
 “好き”って……
 “愛してる”って……
 それだけで私は救われるのに……」

 悠真の喉が震えた。

「……俺は……
 おまえに言えば……
 もう後戻りできなくなるんだ……」

「後戻りしたいの?」

「違う!!」

「じゃあどうして……?」

「俺は……
 俺なんかが……
 おまえを愛すると言い切って……
 もし守れなくなったら……
 志穂を壊す……」

 志穂は涙をふき、
 静かに首を横に振った。

「私ね……
 もう壊れかけてるよ」

 悠真の目が痛みで揺れる。

「志穂……」

「このままじゃ無理だよ……
 言葉がほしいわけじゃない。
 安心がほしいの。
 “選ばれている”って実感がほしいの……」

 志穂は小さく息を吸った。

 そして、震える声で言った。

「……もう少しだけ、
 実家に帰ろうと思う」

 悠真の手が、空中で止まった。

「……帰る?
 志穂……俺のそばから……離れるのか?」

「少しだけ……距離を置きたいの」

 悠真の顔から血の気が引いた。

「待ってくれ」

「もう待ってるよ……ずっと……
 あなたが私を見るのを待ってるよ……
 でも、あなたは私じゃなくて……
 誰も見てないみたいで……」

 ゆっくり、志穂は背を向けた。

「……今日はもう、話せない」

「志穂……!」

 引き止める声が震えていた。

 でも志穂は振り返らなかった。

(このままじゃ、もっと壊れてしまう)

 そう思いながら、
 自室のドアを静かに閉めた。

 ドア越しに、悠真がかすかに囁く。

「……頼むから……行かないでくれ……」

 しかしその声は、
 志穂の耳まで届かないほど弱かった。

 誤解は、深く深く絡まり合い、
 その夜、ふたりの心をさらに遠ざけた。
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