『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第20章「家を出る朝、沈黙の指輪」

 玄関前の棚。
 そこには、結婚式の日に悠真が
 照れくさそうに渡してくれた指輪が光っていた。

 志穂は左手の薬指を見つめる。

 細いリングが、
 “繋がり”を示す証のように
 小さく光を返していた。

(……外したくない)

 本当は、つけたまま出たかった。
 心だけでも繋がっていたかった。

 けれど——

(今のままだと……指輪を見るたび、苦しくなる)

 志穂は、そっと指輪を外した。

 金属の冷たさが指に残り、
 胸の奥まで冷たい隙間が広がる。

 それを、小さな棚の上に置いた。

 カチ、と音が響いた。

 その小さな音が、
 二人の間に割れたひびの音のようだった。



 そのとき、背後から静かな足音。

「……志穂」

 振り返ると、
 白シャツのボタンもかけきれないままの悠真が立っていた。

 目の下には薄い影。
 ほとんど眠れていない顔だった。

 志穂は微笑んだ。
 泣いてしまわないように。


 悠真は口を開きかけ、
 言葉を失ったように閉じる。

 志穂はバッグを持ち直し、
 軽く立ち直った声を作った。

「行ってきます」

 悠真の目が、痛むように揺れた。

 言いたいことが全部、
 喉でつかえているのがわかる。

 昨夜は“行かないでくれ”と言えた。
 なのに今日は、
 その一言が出てこない。

(……やっぱり、そうなんだ)

 志穂の胸が静かに沈んだ。



 悠真の視線が、棚の上の指輪に落ちる。

 小さな金色のリングが、
 朝の光の中できらりと光っていた。

「……外したのか」

 声がとても小さかった。

(聞かないで……
 聞かれたら、泣いてしまう)

 志穂は、かすかに頷くだけにした。

「返すつもりじゃありません。
 ただ、持っていたくないんです。
 ……いまは」

 悠真は痛むように顔を伏せた。

 指輪が“重荷”になってしまった。
 そう思わせたのは、他でもない自分だ。

(言いたい……
 本当は、離れたくない……)

 けれど――
 喉の奥が震えて声が出ない。



 志穂は、玄関の扉に手をかけた。

「行ってきます。
 ……必ず戻ります。
 でも今は……無理だから」

 最後の言葉は、
 風に消えるほど小さかった。

 ドアを開けると、
 冷たい朝の空気が流れ込む。

 その空気の中へ、
 志穂は一歩足を踏み出した。

 背後で気配が動いた。

「……志穂」

 呼び止める声。
 でもその声には“止める力”がなかった。

 志穂は振り返らず、
 ゆっくり目を閉じた。

(……最後まで、言ってくれないんだ)

 胸がきしむ。

 扉がゆっくり閉まり、
 静かな音を立てて世界が分かたれた。



 玄関にひとり残った悠真は、
 棚の上の指輪に手を伸ばした。

 そっと触れる。
 金属は冷たくて、
 それがそのまま心の温度のようだった。

「……ごめん。
 本当は……行かないでほしい」

 誰にも聞こえない声だった。

 志穂には届かない言葉だった。

 家の中には、
 静けさだけが残っていた。
< 20 / 56 >

この作品をシェア

pagetop