『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第21章「姉の前で流れる涙」

 実家の門をくぐった瞬間、
 志穂の足がわずかに止まった。

 いつもは安心するはずの家なのに、
 今日は胸がつまるように苦しい。

 玄関の前で深呼吸をしてから、
 チャイムを押した。

 すぐに扉が開き、
 きちんとしたヘアスタイルのまま
 姉の真理が顔をのぞかせた。

「……志穂?
 なにその顔。どうしたの?」

 見慣れた穏やかな声だったのに、
 その声を聞いた瞬間——
 志穂の胸がほどけていった。

「……ちょっと、帰ってきたくて」

「いいから入りなさい。寒いでしょ」

 真理は志穂の腕をそっと引き、
 リビングへ導いた。



 温かい紅茶を手渡されても、
 志穂はなかなか口をつけられなかった。

 真理は向かいのソファに座り、
 急かすことなく、
 ただ静かに見守ってくれている。

 しばらくして、志穂はぽつりと口を開いた。

「……ねえ、お姉ちゃん」

「うん」

「私、ちょっと……
 悠真くんのところから離れることにした」

 真理の目が揺れた。
 驚きはあったが、責める色はなかった。

「……理由、聞いてもいい?」

 志穂は唇を震わせ、
 ようやく声を絞り出した。

「好き……って、言ってくれないの」

 その瞬間、
 堪えていた涙が道を見つけたように
 ぽろぽろと流れ始めた。

「私ばっかり……言葉を求めて……
 でも、悠真くんは何も……言ってくれなくて……
 昨日なんて……
 止めてくれたのに……
 今日は何も言わなかった……」

 話しているうちに、
 嗚咽に変わっていく。

 真理は黙ったまま、
 志穂の隣へ移り、背中に手を添えた。

「よく我慢してたね、志穂」

 そのひと言で、
 志穂はさらに泣いた。

「わたし……
 ただ一度でいいから……
 “好きだ”って言ってほしいだけなのに……
 そんなに難しいの……?」

「難しいんじゃない」
 真理は柔らかく首を振る。
「悠真くんには……怖いのよ」

「こ、わい……?」

「あなたを好きになる覚悟を、
 言葉で結ぶのが怖いの。
 あの子は昔から責任感が強いから」

 志穂は涙で濡れた目を瞬かせた。

 真理は、紅茶の湯気を見つめながら続けた。

「志穂、あなたずっと思ってるでしょ。
 わたしが、悠真くんを、好きなんじゃないかって」

 志穂は息を呑んだ。
 突然核心を突かれ、言葉が出ない。

「違うわよ」
 真理は穏やかに笑った。

「わたしじゃない。
 あの子が守りたかったのは、ずっと——あなた」

「……え……?」

「気づかなかった?
 あの子、昔からどんなときでも
 あなたの後ろに立ってたじゃない」

 幼い日の写真が脳裏に浮かぶ。
 真理の後ろに隠れる志穂の頭を、
 優しく撫でていた少年の姿。

 胸の奥で何かがじんわり溶けていった。

「でも……それなら……
 なんで言ってくれないの……?」

「言えないんじゃないの」
 真理はそっと志穂の手を包んだ。
「“言ったら最後まで責任を持つ”って、
 あの子は本気で思ってるから。
 あなたの人生を、最後まで背負う言葉だから——
 簡単に言えないのよ」

 志穂の涙は、止まる気配を見せなかった。

「……ずるいよ……
 そんなの……言われなきゃ、わかんない……」

「そうね。でもね——」
 真理は優しく微笑んだ。
「あなたがこんなに泣けるほど好きになれた相手よ。
 こんな事で終わる関係じゃないわ」

 志穂は、真理の肩に顔を伏せて泣いた。

 静かな部屋に、
 志穂の涙の音が溶けていった
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