『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第26章 「志穂、母との対話」


 夕食の片づけがひと段落した頃、
 玄関の扉が控えめに開いた。

「……ママ?」

 志穂が顔を上げると、
 母・一条香織(かおり)が心配そうな顔で立っていた。

「志穂、真理から連絡を受けたの。
 すぐに帰ってきたわ」

 その声を聞いた瞬間、
 胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

(……ママの前だと……強がれない)

 志穂は、小さく息を吐いた。

「ただいま……ママ」

 母は靴を脱ぐと、
 志穂の隣のソファへそっと腰を下ろした。

「志穂」

 呼ばれるだけで、
 涙がこみ上げそうになる。

「辛かったんでしょう?」

 優しい声だった。
 否定する気力もない。

「……うん」

 短い返事だけで、
 胸が詰まって声が震えた。



「真理から聞いたわ。
 少しのあいだ、家に帰るって」

「うん……少しだけ」

 志穂は自分の指をぎゅっと握りしめた。

「悠真くんと……何があったの?」

 母の問いは責める響きがなく、
 ただ娘を心配する温度に満ちていた。

 だからこそ——
 志穂の胸がほどけて、
 言葉が出てきた。

「……わたし、“好きって言ってほしい”って……
 ちゃんと聞いたの……」

「ええ、聞いたのよね」

 母は優しくうなずいた。

「でも……答えてくれなかった……」

 声が震え、
 視界がにじむ。

「“行かないで”って言ってくれた日もあったのに……
 次の日には……何も言ってくれなかった……
 わたし……何が正しいのか……わからなくて……」

 涙が頬を伝い落ちた。



 母は志穂の手を包み込み、
 静かに言った。

「志穂。
 あなたはね、ちゃんと聞いたわよ。
 “どうして言ってくれないの?”って」

「……うん」

「あなたは悪くないの。
 本当に、大切な人に……勇気を出して聞いたのよ。
 その気持ちは間違ってないわ」

 志穂の胸が熱くなる。

「でもね、あの子は——
 “言いたいのに言えない理由”を抱えてるのよ」

「……言えない……理由?」

 母は、懐かしいものを見るように目を細めた。

「昔からそうだったわ。
 あなたが熱を出した日、
 部屋の外にずっと座っていたこと……覚えてる?」

「え……?」

「あなたの咳が聞こえるたびに、
 扉の前の床がきしんだの。
 心配でずっと立ってたのよ。
 でも……中には入ってこなかった」

「……なんで?」

「“何を言えばいいかわからない”って
 泣きそうな顔をしてね……」
 母は笑った。
「あなたの好きな飲み物を真理に聞きに行ったのよ」

 志穂の胸がゆっくりと温かくなる。

(そんなこと……知らなかった……)

「悠真くんね、責任感が強いの。
 あなたの人生を背負う言葉を、
 軽く言うのが怖いのよ」

「……“好き”って……?」

「そう、“好き”。
 言った瞬間に——
 あなたを一生守る覚悟と責任
 あの子には、それがまだ怖いのよ」

 志穂の目から、また涙が落ちた。

「……でも……わたし……
 その言葉がほしかった……」

「欲しがっていいのよ」
 母ははっきり言った。
「むしろ……それを求められるのが、夫婦なの」

 志穂は唇を噛んだ。

「わたし……重いのかな……?」

「重くなんてないわ」
 母は即答した。
「あなたは優しいの。
 不安になるからこそ、言葉を欲しがるだけ」

 志穂の肩が震えた。



「志穂」
 母は娘の手をぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫よ。
 あなたの気持ちは、ちゃんと伝わってる。
 あの子の中でいま、
 “覚悟”と“恐れ”がぶつかりあってるだけ」

「……覚悟……」

「そう。
 あなたを選ぶ覚悟と、
 あなたを傷つけたくない恐れ」

 志穂は泣きながら、小さく頷いた。

「……ママ……
 わたし……悠真くんのこと……好きで……
 ずっと……」

「知ってるわよ」
 母は微笑んだ。
「あなたがこんなに泣ける相手なんて……
 他にいないもの」

 志穂は、母にぎゅっと抱きしめられた。

 その温もりは、
 氷のように冷たくなっていた心を
 ゆっくりとかき混ぜて溶かしていくようだった。

「泣いていいのよ、志穂。
 ここはあなたの家なんだから」

「……うん……っ……」

 志穂は、
 ようやく声をあげて泣いた。

 子どもの頃のように、
 母の胸の中で。
< 26 / 56 >

この作品をシェア

pagetop