『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第29章 「ラウンジの女性・葵が真理に接触」



 翌朝。
 志穂が荷物をまとめて
 家へ戻る支度を始めたその頃。

 真理はマンション前の
 カフェテラスでコーヒーを飲んでいた。

 その表情は穏やかだが、
 目の奥に深い影があった。

(……志穂、気づいてないのよね)

 昨日、SNSで見た噂。
 “旦那さんが別の女性と話していた”という投稿。

(あれ、たぶん……あの子のことよね)

 真理には、
 心当たりがあった。

 そのとき——

「……一条真理さん、ですね?」

 静かな声が落ちてきた。

 顔を上げると、
 スーツ姿の女性が立っていた。

 落ち着いた黒髪。
 控えめな化粧。
 どこか凜とした空気をまとっている。

(……この顔……知ってる)

 真理が息を呑むより早く、
 女性は丁寧に頭を下げた。

「申し遅れました。
 新堂葵(しんどう・あおい)と申します」

 その名を聞いた瞬間——
 真理の心臓が強く跳ねた。

(新堂……)

 数年前の婚約者、
 新堂家。

 兄・晶司。
 そしてその妹——葵。

 忘れようとしていたはずの過去が、
 テーブルの上に突然落とされた。

「……久しぶりね」

 真理が低く答えると、
 葵はまっすぐな瞳を向けた。

「突然押しかけて、申し訳ありません。
 ですが……どうしても今日、
 あなたに会わなければならなくて」

「目的は?」

 真理の声は張り詰めていた。

「……あなたの妹さんのことです」

 真理の表情が一気に険しくなる。

「志穂に……何か?」

 葵は少し唇を引き結び、
 そのまま静かに続けた。

「先に言わせてください。
 私はあなた方に敵意はありません。
 ですが……兄の一部親族が、
 “志穂さんに接触しようとしている”のは事実です」

「……っ」

「“破談の責任を、一条家の妹で取らせるべきだ”と——
 そんな愚かな考えを持つ者が数名います」

 真理の拳がテーブルの下で震えた。

(志穂に……
 あの子に、そんな火の粉が?)

 真理は唇を噛む。

「なぜ……志穂?
 わたしの選択なのに」

「分かっています。
 あなたのせいではありません」
 葵は強い目で言う。
「でも、家とは……
 “筋違いの怒り” が伝染する場所なんです」

 真理は息を詰まらせた。

「あなた……志穂を守るために動いているの?」

「はい」
 葵は微笑んだ。
 その目には偽りがなかった。
「兄も……本当は、志穂さんを巻き込みたくありません。
 ですが親族の一部が騒ぎだして——
 事態は私ひとりでは抑えきれませんでした」

「だから……悠真くんに会いに行った?」

「ええ。
 “志穂さんには言わないでほしい”とお願いしました」

 真理は目を閉じた。
 あまりにも多くのものが繋がりすぎていた。

(葵さんは敵じゃなかった……
 でもその沈黙が……
 志穂をどれだけ追い詰めたと思ってるの……)

 胸が苦しくなる。

「あなたは……どうしてそこまで?」

 葵は少しだけ視線を落とした。

「真理さん。
 あなたが兄との婚約を断った理由は……
 私は理解しています」

「……理解?」

「兄が相手では……
 あなたは幸せになれなかった。
 私は女性として、よくわかっています」

 真理は言葉を失った。

「だから私はあなたを恨んでいません。
 むしろ……守りたいと思っています」

 その言葉に、真理の眉が揺れる。

「でも……志穂さんは違います。
 “あなたの選択の影”を知らないまま、
 巻き込まれてしまった」

「……志穂……」

「真理さん。
 あなたからも、妹さんを守ってあげてください」

 葵は深く頭を下げた。

「志穂さんは……
 本当に、優しい方です。
 あの方が傷つくのを見るのは、
 もう耐えられません」

 真理の目から、
 静かに涙がこぼれ落ちた。

(……ごめんね……志穂……
 わたしの“過去”が、
 あなたを苦しめていたなんて……)



 葵は去り際、
 真理に振り返った。

「最後にひとつ。
 一条悠真さんは……
 あなたの妹さんを心から大切にしています」

「…………」

 真理の呼吸が止まった。

「だからこそ、
 何も言えなくなっていたんです。
 “守るために言えない男”なんです」

 そして、葵は
 静かに微笑んだ。

「どうか……誤解しないであげてください」

 その背中が遠ざかっていくにつれ、
 真理の胸は震えた。

(悠真くん……
 あの子……
 本当に、志穂を……?)

「……志穂に、伝えなきゃ」

 真理は震える手でスマホを握りしめた。

(志穂……
 あんたは、姉の影なんかじゃない。
 誰かの“代わり”じゃない。
 ちゃんと愛されてる)

そして——
この日を境に、“姉の影の物語”は大きく動き出す。
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