『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第3章 「甘くない新婚の朝」

 結婚して半年。
 一条家のペントハウスは、今日もホテルのように静かだった。

 朝の光がダイニングのガラス越しに差し込み、白いテーブルクロスを柔らかく照らす。
 その中央に置かれた温かい紅茶の湯気だけが、かすかに揺れている。

「……おはようございます、悠真さん」

 キッチンからそっと現れた志穂が挨拶をすると、
 新聞を広げていた悠真は、少しだけ顔を上げた。

「おはよう」

 それだけ。
 たった4文字の朝。

 新婚夫婦の会話としては、あまりに味気ない。
 けれど、それが志穂と悠真の“いつもの朝”だった。

 志穂は湯気の立つお皿を二人分、静かにテーブルへ運ぶ。
 スクランブルエッグとサラダ、そして焼きたてのパン。

「……今日は、砂糖は入れませんでした。最近、ブラックがお好きかなと思って」

 自信なさげに言うと、悠真は軽く瞬きをし、

「ありがとう。助かる」

 そう呟いて、カップを持ち上げた。

 志穂の胸が、ほんの少しだけ温かくなる。
 けれど、その温度は長く続かなかった。

「今日の予定は?」

 新聞から目を離さないまま、悠真が問う。

「午前中は父と会議で、午後は……叔父の会社に挨拶回りです」

「そうか。無理はするな」

「はい」

 また、会話が途切れる。
 静かなクロックの秒針だけが、部屋の中で時間を刻む。

(どうしてだろう……)

 同じテーブルに座っているのに、
 触れられる距離にいるのに、
 心だけが遠くにある気がした。

 志穂はカップを両手で包み込み、うつむいたまま言う。

「……ねえ、悠真さん。結婚して、もう半年ですね」

「ああ」

「……あっという間でしたね」

「そうだな」

 淡々と返ってくる声に、胸がきゅっと詰まる。

 “夫婦の会話”は、どうすればできるんだろう。
 “好きな人との朝”は、本当はもっと甘いもののはずなのに。

「結婚して……よかったって、思いますか?」

 勇気を振り絞って聞くと、悠真の手が一瞬だけ止まった。
 新聞がかすかに揺れる。

 志穂は怯えるように、彼の表情をうかがった。

「……責任を果たせるように努めるよ」

 その答えは、やっぱり“愛”ではなかった。
 胸の奥がひどく痛む。

(責任じゃなくて……私がほしいのは、“あなたの気持ち”なのに)

 言えない言葉を飲み込んだ瞬間、
 悠真がふと志穂の皿に視線を落とした。

「志穂、……食べてないな」

「あ、えっと……」

「朝はちゃんと食べろ。すぐに体調を崩すんだから」

 いつかの庭での「転ぶなよ」と同じ響き。
 不器用だけど、優しい声。

 胸がじんわりと温かくなりかけて――
 すぐに寂しさが押し寄せる。

(優しさだけじゃ、足りないよ……)

 志穂は俯いたまま、パンをちぎった。

 二人の間には、まだ言葉にできない“何か”が横たわっている。
 甘くも、苦くもない――どこにも行けない距離。

 食事を終えると、悠真が時計に目を落とした。

「そろそろ出る。車は手配してあるから」

「……はい。ありがとうございます」

 立ち上がろうとした時、
 志穂の袖を、悠真がほんの一瞬だけ指でつまんだ。

「志穂」

「……はい?」

「今日、雨が降るかもしれない。傘を忘れるな」

「え?」

「……それだけだ」

 すぐに手を離し、玄関へ向かってしまう。

 志穂はぽつんと取り残され、
 そっと胸元に触れた。

(ねえ、悠真さん……“行ってきます”の前に、
 たった一言だけでいいのに)

 玄関の扉が閉まる音が響く。

 今日もまた、
 甘くない新婚の朝が終わっていく。
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