『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』
第30章「戻った家、すれ違う朝」
翌朝。
志穂は真理と母に見送られ、
ゆっくりと自宅マンションへ向かった。
胸の奥はまだざわざわしている。
けれど昨夜、
「向き合いたい」 と決めた自分を裏切りたくなかった。
エレベーターの鏡に映る自分の顔は、
少しだけ強く見えた。
(……大丈夫。
話せる。ちゃんと向き合える)
そう自分に言い聞かせながら、
静かに鍵を回した。
ドアの向こうから、
足音がふっと近づく。
「……志穂?」
ドアを開けた瞬間、
悠真が立っていた。
ネクタイはまだ結びかけ。
朝の光に肩が淡く照らされている。
その瞳が、
ほんの一瞬だけ大きく揺れた。
「……帰ってきたんだな」
その声はかすかに震えていて、
志穂の胸がじんと痛んだ。
「……うん。
ただいま」
言った瞬間、
悠真の表情が少しだけほどける。
本当に、ほんの少しだけ。
「……おかえり」
その短い言葉が、
志穂の心に温かいものを流し込んだ。
だが、次の瞬間。
「……朝ごはん、まだ何も用意できてないんだ」
「あ……大丈夫。
わたし、後で軽く食べるから……」
「……そうか」
本当は一緒に食べたかった。
でもお互い、
そのひと言が言えなかった。
同じキッチンで、
すれ違いながらカップを取る。
肩がかすかに触れそうで、
どちらもわずかに避けてしまう。
(触れたかったのに……)悠真
(触れたかったのに……)志穂
思っているのは同じなのに
距離はなぜか遠いままだ。
志穂はコーヒーを淹れながら
ちらりと悠真を見た。
少し目の下に影がある。
昨日ほとんど眠れていないのが
すぐにわかった。
(……わたしのせいだよね)
胸がきゅっと痛む。
一方で悠真は、
志穂の手の震えを見ていた。
(不安にさせてばかりだ……
本当はすぐに抱きしめたいのに)
でも、その衝動は飲み込んだ。
(言えば傷つけるかもしれない。
触れれば壊してしまうかもしれない)
昨日葵に言われた
「志穂さんには真実を言わないほうが」
という言葉が喉を塞いでいた。
「……今日、仕事?」
志穂が小さく聞く。
「ああ……すぐ行かないと」
「……そうなんだ」
本当は、
「行かないで」と言いたかった。
本当は、
「もう少しここにいて」と言いたかった。
悠真もまた、
本当は「今日は休む」と言いたかった。
(戻ってきたばかりなのに……
離れたくない)
でも行かなければならない理由がある。
志穂に言えない“案件”が。
(こんなときに限って、仕事が増える……)
焦りと無力感が胸の中でせめぎ合う。
玄関で靴を履きながら、
悠真はふと振り返った。
「……志穂」
「……なに?」
ほんの一秒、
何かを言いかけた。
喉が震える。
唇がかすかに動く。
(言って……
言ってほしい……)
(言いたい……
本当は言いたい……)
だけど——
「……後で、また」
違う言葉が落ちた。
志穂の心が
ふっと沈む。
(“愛してる”じゃない……
“行かないで”でもない……
どうして……)
「……うん。いってらっしゃい」
笑顔を作ったが、
その目は濡れていた。
悠真は、その涙を見ているのに——
触れられない。
触れてはいけない気がして。
(……ごめん
本当は、行きたくなんてない)
そう心で叫びながら、
彼は静かにドアを閉じた。
扉が閉まったあと、
志穂の手からカップがかすかに震え落ちた。
「……後でって……
なに……?」
泣きたいのに泣けない。
戻ってきた家に、
温かさよりも静けさが広がっていた。
同じ屋根の下に戻った朝なのに、
心はまだ触れ合わないまま。
そしてその裏で起きている
“真理の過去の影”と
“葵が動き出す気配”を
志穂はまだ知らない。