『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』
第32章 「志穂、誰かからの訪問」
午前十一時。
志穂は、
ひとりで静かなリビングに立っていた。
掃除をしようとしていたはずなのに、
カーペットの上に座り込んでしまった。
(……朝、あんな別れ方したのに……
なんで戻ってきてほしいって
思ってるんだろう……)
さっき淹れたコーヒーは、
すっかり冷えている。
と、そのとき——
ピンポーン。
インターホンの澄んだ音が、
静けさを切り裂いた。
(……悠真くん?
まさか……帰ってきて……?)
心臓が跳ね、
急いで玄関へ向かった。
モニターに映った顔を見て、
息が止まった。
そこに立っていたのは——
見知らぬ男。
三十代後半ほど。
高価なスーツに、
無駄のない背筋。
(……誰……?
うちを……知ってるの?)
恐る恐る応答ボタンを押す。
「……はい」
「一条志穂さんのお宅でしょうか?」
低く抑えた声。
丁寧なのに、冷たい。
「……はい。
どなたでしょうか」
「失礼。
新堂家の者です」
志穂の手が震えた。
(……新堂……
真理お姉ちゃんの……)
「妹さんに関わる要件で参りました。
少しだけ、お時間を……」
嫌な予感が胸を刺した。
(……怖い……
でも……どうしよう……)
拒否すれば帰るかもしれない。
でも、
相手は“名家”の人間だ。
一条家の住所を知っていることも怖かった。
志穂は、
ゆっくりドアを開けた。
リビングに通すと、
男は丁寧に頭を下げた——
が、瞳の奥の冷たさは変わらない。
「急に押しかけて申し訳ありません。
私は新堂家の“叔父”にあたる者です。
あなたのお父様とは
何度か会ったことがあります」
「あ……そうなんですか……」
志穂の指先が震えていた。
(なんで……わたしの家に……?
どうして……今……?)
「本日はですね……
“お願い”というほどではありませんが、
一条家の妹君として、
少し“ご理解”をいただきたく参りました」
言葉遣いは丁寧なのに、
その圧は明らかに“お願い”ではなかった。
「……ご理解……?」
「ええ。
真理様のご婚約が破談となったことは
ご存じでしょう」
「はい……」
「その後、我が家は
多少の混乱があったのです」
志穂は唾を飲み込む。
「しかしながら、
我が新堂家としては……
一条家と無用な軋轢を起こすつもりは
ありません」
男の視線が、
鋭く志穂に向けられる。
「ただし——
“妹様”が何かしら動いてしまうと、
改めて注目が集まってしまう可能性がある。」
「……動く、というのは……?」
「あなたの名は、
存じ上げております。
一条家の“次女”。
さらに……
一条悠真氏の“奥方”。」
志穂の呼吸が浅くなる。
(どうして……
わたしと悠真くんまで……)
「ですから。
あなたにはぜひ“静かに”暮らしていただきたく。
それが結果的に、
一条家のためにもなるはずです」
丁寧な言葉の裏に、
“黙ってろ” が透けて見える。
「…………」
「真理様の件が再燃しなければ、
あなたも安全でしょう。
もちろん、我が家としても……
そのほうが望ましい」
(……安全……?
わたし……狙われてる……?)
背中が冷たくなる。
「ただ、
ご主人にもお伝えください」
男は視線を鋭く細めた。
「**“新堂家のことに口を出さないように”**と」
(どうして……
悠真くんが……)
「あなたの夫は、
どうやら我が家の“内情”に
不自然なほど詳しい」
その言葉で、
志穂の胸に
朝のラウンジの噂が蘇る。
『また若い女性と話してた』
(もしかして……
あの女性……
悠真くんは……
わたしに黙って……
新堂家の人と……?)
「余計な誤解が広がらぬよう、
どうかくれぐれも……
目立った行動はお控えを」
丁寧に頭を下げ、
男は去っていった。
ドアが閉まった瞬間——
「…………っ」
志穂の膝が崩れ落ちた。
冷たい床に手を突く。
(悠真……くん……
なんで……
わたしに……言ってくれないの……?)
胸の奥が、
ずきん、と痛んだ。
(また……
“わたしだけ知らない”の……?
どうして……?)
返事のないスマホを握りしめたまま、
志穂は静かに涙を落とした。