『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第33章「悠真、マンションへ走る」

 エレベーターの扉が閉まる瞬間、
 悠真は反射的に“閉”ボタンを叩いた。

(志穂……!)

 胸が潰れそうだった。

 呼吸が浅い。
 喉が締めつけられる。

 葵の言葉が、頭の中で何度も反響していた。

『兄は……妹さんに接触しようとしている可能性があります』

『志穂さんをひとりにしないでください』

 エレベーターの下降がやけに遅く感じる。

(俺が……
 朝、あんな風に出てくるんじゃなかった……)

 志穂の泣きそうな笑顔が浮かぶ。

  “行ってらっしゃい” の声が、震えていた。

(気づくべきだった……
 あの時、抱きしめてでも止めれば良かったんだ……!)

 拳が震えた。

***

 ロビーの扉が開くと同時に、
 悠真は小走りで駐車場へ向かった。

 ドアを閉める音が自分の心臓の鼓動より小さい。

 ハンドルを握った瞬間、
 スマホが震えた。

 画面には見慣れた名前。

《志穂》

「……っ!」

 すぐに取ったが——

 無言。

「……志穂?
 聞こえるか?」

 息を呑む間があった。

 そして——
 かすかな呼吸音。

 震えている。

「……ゆ……ま……く、ん……?」

 声が掠れていた。
 泣いた後のように。

 全身から血の気が引いた。

「志穂……!?
 どうした、なにが……!」

「……あの……人が……
 来て……」

 来た。

 最悪のタイミングで。

「どこにいる!?
 今どこにいる!」

「……リビング……
 でも……怖くて……動けなくて……」

 悠真の心臓が握りつぶされる。

(なんてことだ……
 なんて……ことを……!)

「志穂、聞け!」

 声が震えていた。
 でも強く言わなければ、
 彼女が崩れてしまう気がした。

「今すぐ行く。
 絶対に、すぐ——!」

 スマホを握ったまま、
 車を急発進させた。

 スピードメーターが一気に跳ね上がる。



 道路の景色が流れていく。
 信号が赤に変わるたび、
 怒りと焦燥でハンドルを叩いた。

(俺は……
 守るために黙っていた。
 黙っていれば、志穂を傷つけずに済むと思っていた……)

(でもそれは違った。
 “守るための沈黙”は、
 “志穂をひとりにする沈黙”になっていたんだ……!)

 胸の奥が灼けるように痛い。

(志穂……
 怖かっただろう……
 苦しかっただろう……
 どれだけ不安だったか……!)

 視界がにじむ。
 涙ではない。
 怒りと、自分への失望だった。

「……ごめん……
 志穂……」

 運転しながら、
 かすかにそうつぶやいた。



 マンションが見えた瞬間、
 悠真はブレーキを踏むより早く
 車を飛び出していた。

 走る。
 息が切れるほど。
 心臓が痛むほど。

(志穂……
 もうひとりにしない……!
 絶対に……!)

 エントランスの自動扉が開く。
 エレベーターは上階にいる。

「……くそ!」

 階段へ駆け込んだ。

 何度も滑りそうになりながら、
 二段飛ばしで駆け上がる。

 呼吸が荒い。
 胸が焼ける。

 でも止まらない。

(そこに……いるだろ……
 志穂……!)

 心の中で叫びながら、
 ようやく階にたどり着いた。

 廊下を走る。
 彼女の部屋の前に——

 到着した。

 悠真は息を荒げながら、
 ドアに手をかけた。

「……志穂……
 開けて……
 いや……もう……開けなくていい」

 手が震える。

「俺が入る。
 もう絶対に……離れない」

 その声には、
 今まで隠していたすべてが滲んでいた。

 扉に手を当てたまま、
 悠真は静かに、
 しかし強い意志で言った。

「志穂……
 そこにいてくれ。
 今……行くから——」

 ドン、と扉の向こうで小さな音がした。

(……志穂……!)

 悠真は、
 その名を胸の奥で強く呼んだ。
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