『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第36章「悠真、激怒の序章」

 志穂の涙を見たあと、
 悠真はゆっくりと立ち上がった。

 まだ彼女の手には触れていない。
 触れたくてたまらないのに、
 今触れたら壊してしまいそうな気がして。

「……少し、水持ってくる」

「……うん」

 志穂は弱く頷いただけだった。

 キッチンに入った瞬間、
 悠真はカウンターに手をついた。

 ぐっ……

 拳が白くなるほど力が入る。

(……新堂家のやり方……
 どこまでもふざけてる……)

 氷のような瞳が、
 一瞬ギラリと光った。



 コップに水を注ぎながら、
 さっき志穂が言った言葉を思い出す。

「わたし……
ほんとに……
あなたの気持ちが知りたかっただけ」

(……知りたかっただけ、か)

 胸の奥が痛いどころか、
 刺すように締めつけられる。

(知りたかっただけなのに……
 俺は……なにをしてきたんだ)

 守りたい一心で黙って、
 黙ったせいで傷つけて、
 泣かせて、
 ひとりにして——

(……馬鹿すぎるだろ、俺……)

 唇をギリッとかみしめた。

 水の入ったコップを持って戻ろうとしたそのとき。

 スマホが震えた。

 画面に映った名前は、

《葵》

(……またなにかあったのか)

 通話を取ると、
 いつも冷静な葵の声が、
 どこか急いていた。

『……一条さん。
 話が変わりました』

「どういうことですか」

『先ほど……新堂家の叔父が
 “志穂さんとの話し合いを進めるべきだ”
 と言い出したのです』

「……話し合い?」

『“一条家との縁を、妹のほうで結べば良い”と。』

 瞬間。

 悠真の呼吸が止まった。

(妹……?
 志穂……?
 縁を……結ぶ……?)

 カチャン——

 手からコップが落ち、
 床で音を立てて転がった。

 しかし拾う気力もない。

『志穂さんが既婚であることは承知の上だ、と。
 “離縁すれば良い”という暴論まで出ました』

 その瞬間。

 バチッと、
 悠真の中で何かが完全に切れた。

「……何を……
 言ってるんですか、その男は」

 低く、
 聞いたことのない声が自分の喉から出た。

 怒りが骨の奥まで震えさせる。

『私も止めようとしました。
 でも叔父は“家の面子のためだ”と……』

「面子……?」

 笑い声に似た息が漏れた。

 冷たい怒りが、
 背筋を凍らせる。

「……俺の妻をなんだと思ってる」

 キッチンの空気が一気に冷えた。

 怒鳴り声ではない。
 静かで、低くて、鋭い声。

『……一条さん——』

「志穂は“代わり”なんかじゃない」

 吐き捨てるような声。

「姉がだめなら妹?
 人をなんだと思ってる」

 握りしめた拳が震える。

(“離縁すれば良い”…?
 ふざけるな……
 絶対にさせるか……)

「志穂に……
 手を出す気なのか」

『一条さん、落ち着いて——』

「落ち着けるわけないだろ!」

 低く怒鳴った声が、
 部屋の壁に反響した。

 志穂が驚いたように振り向く。
 涙の残った目を見せながら。

(……志穂……
 俺のせいで……
 また怯えさせてる……)

 でも——
 止められなかった。

「志穂は俺の妻だ。
 誰にも触れさせない。
 誰の都合にも渡さない」

 それは、
 今まで一度も口にできなかった本音。

『……一条さん。
 あなたがそう言うのを……
 志穂さんは一番、聞きたかったはずです』

 その言葉に、
 胸の奥がズキリと痛む。

(……そうだ。
 言うべきことは全部……
 志穂に言わなきゃいけない)

「……葵さん。
 ありがとう。
 もう、こっちは俺が動く」

『わかりました。
 どうか……志穂さんを守ってあげてください』

 通話が切れた。

 悠真は、大きく息を吐いた。

 その横で、
 志穂が静かに立っていた。

「……いまの声……悠真くん……?」

 涙に濡れた目で、
 不安と驚きが混ざった表情。

 悠真は、
 自分の胸に沈んでいた言葉を
 ゆっくりと飲み込み、
 彼女のほうへ向き直った。

「……志穂。
 絶対に……
 おまえを誰にも渡さない」

 その声は静かで、
 でも燃えるように熱かった。

 志穂は息を呑む。

 悠真は今、
 初めて“本当の感情”を言ってしまった。

 もう隠せない。

激怒の序章は、
 そのまま“愛の序章”でもあった。
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