『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第37章「新堂家、正式に動き出す」

 悠真の怒りが静かに燃えたその夜——。

 マンションの窓の外に、
 鈍く光る夜景がゆっくりと滲む。

 志穂はソファに座り、
 まだ涙の跡が残るまま遠くを見つめていた。

 悠真はキッチンの片隅で、
 拳を握りしめたまま深呼吸をしていた。

(……志穂を守る。
 もう絶対に離さない)

 そう心に決めた直後だった。

——スマホが震えた。

画面には
《父・一条正臣》
の文字。

(……父さん?)

普段は滅多に直接かけてこない男だ。

ただの偶然ではない。
心臓がじわりと重くなる。

「……はい、悠真です」

 すぐに、
 厳しい低音の声が響いた。

『今すぐ話せるか』

「……はい」

『おまえの妻、志穂さんの件だ』

 一言目で背筋が凍った。

「志穂が……どうかしたんですか」

『新堂家から正式な打診があった』

 時間が止まった。

(……来たな)

『“真理様との破談の件を一条家がどう収めるつもりか”
 “志穂様を交えて、三者会談を行いたい”
 ……そう申し入れがあった』

「……三者会談?」

 喉が乾く。

「父さん、それは……」

『形式は“話し合い”だが、
 実質は“圧力”だ』

 父の声には怒気が混ざっていた。

『しかも、新堂の者は
 “夫である悠真くんも同席してほしい”と言ったそうだ』

(……俺も……?)

 胸に重く沈むものが増える。

『理由は明白だ。
 ——おまえが“志穂さんを庇って動いている”と知っている』

「…………」

『新堂家は、一条家の“妹の嫁ぎ先”にも
 圧力をかけるつもりだろう』

(……志穂を……
 俺を……
 そして一条家を……)

『おまえが志穂さんを守りたいのはわかる。
 だがこれは、もう“個人”の問題ではない』

 父の声が鋭く響く。

『家同士の問題だ。』

 その言葉に、
 悠真の目が細くなる。

(家……か)

 そんなものより大切なものがある。
 けれど今はまだ、言えない。

『新堂側はこう言ってきた』

 父はゆっくりと告げる。

『“真理様で駄目なら、妹と縁を結べば良い”と』

「…………」

 胸の奥が一瞬で 真っ赤 に染まった。

『“離縁が必要なら、その話も含めて誠意を見せてほしい”
 ……そこまで言及してきた』

「……離縁……?」

 悠真の声は低く、冷たく震えた。

『もちろん一条家としては断固拒否だ。
 だが相手は筋を通したつもりで来ている。
 “家の面子” を盾にしてな』

「…………」

 拳が震えた。

(離縁……?
 志穂を……?
 俺から……?
 家の都合で……?)

 胸の中で怒りが燃え上がった。

『悠真』

「……はい」

『おまえは志穂さんを、どうしたい』

 父の言葉は、
 今までで一番まっすぐだった。

『守るか。
 手放すか。
 その覚悟を決める時が来た』

 悠真は
 視線をソファの志穂に向けた。

 泣き疲れて伏せたまつげ。
 強がって笑おうとする口元。
 壊れそうな細い肩。

(……守るに決まってる)

 心の奥底で、
 熱が燃え上がる。

「答えは……決まっています」

『聞こう』

 父の声が静かに響いた。

悠真は、
胸の底から絞り出すように言った。

「志穂は……
 俺の妻です。
 誰にも触らせません。
 誰とも縁なんて結ばせない。
 離縁なんて……絶対にしない」

 その言葉は、
 怒りと愛が混じった強い炎のようだった。

『……わかった』

 父の声は短く、しかし深かった。

『その覚悟があるなら
 ——おまえは“夫”として新堂家に向き合え』

「……はい」

『志穂さんを守れ。
 家ではなく、おまえ自身の意思で』

 通話が切れた。

***

 悠真はスマホを静かに置き、
 志穂の方へ歩いていく。

 志穂は不安そうに、
 立ち上がっていた。

「……悠真くん?
 いま……誰と話してたの……?」

 声が震えている。

 悠真はゆっくり近づき、
 彼女の両肩のすぐそばに手を置いた。

 触れない。
 でも、すぐそこに。

「志穂。
 ……聞いてほしい」

「……なに……?」

 悠真の瞳は、
 いつもの冷静さが消え、
 穏やかな光でもなく——

 燃えるように熱かった。

「新堂家が……正式に動いた。
 “志穂を連れて行こう”としている」

「え……?」

「俺から
 “離縁させよう”としている」

 志穂の表情が
 真っ白になった。

「……わたし……
 離婚……させられるの……?」

 その声は、
 本当に小さくて震えていて、
 胸を突き刺すほど痛かった。

 悠真は
 その震えに耐えられなかった。

「……志穂」

 静かに、けれど強く言う。

「離さない。
 絶対に」

 志穂の瞳が揺れた。

 その瞬間——
 部屋のインターホンが鳴り響いた。

ピンポーン。

 あの冷たい音。

 ふたりは同時に入り口を向いた。

(まさか……また……?)

 再び訪れる影の気配。

 “正式に動き出した新堂家”の
 最初の一手が、
 すでに扉の向こうに迫っていた。
< 37 / 56 >

この作品をシェア

pagetop