『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第38章「新堂家の使者(正式な通達)」

 インターホンが鳴った瞬間、
 部屋の空気が凍りついた。

 志穂は胸に手を当て、
 息をひきつらせたまま立ち尽くす。

 悠真はその横で、
 ゆっくりと呼吸を整えた。

(……来たな)

 覚悟した通り、
 いや、それ以上に最悪のタイミングで。

「志穂、下がってて」

「……う、うん」

 志穂はソファの後ろに下がり、
 肩を小さく震わせる。

 悠真は、
 重い扉に手をかけた。

 スッ——と静かに開けると、
 そこに立っていたのは。

 黒いスーツに身を包んだ、
 無表情の男性。

 四十代ほど。
 整えられた髪、磨かれた靴。
 礼儀正しい姿勢と、鋭い目。

 ——“新堂家の代理人”。

(……見たことがある)

 以前、大きなパーティで一度だけ見かけたことがある。
 新堂家の事務方を取り仕切る人物。

 この男が来るということは——

「一条悠真様でいらっしゃいますね」

「……はい」

「新堂家より正式な通達を持って参りました」

 淡々とした声。
 感情がまったくない。

 志穂は奥で息を飲んだ。

 男は胸ポケットから封筒を取り出し、
 恭しく差し出した。

 純白の封筒に、
 “新堂家・家印” が押されていた。

(本当に……“家”として動いたんだ……)

「こちら、
 “破談に関する三者会談”の正式な召喚状となります」

「…………」

「日時は——三日後。
 一条家側から
 一条正臣様(父)
 および志穂様、悠真様のご出席を求めます」

「……志穂も?」

 悠真の声が低く震えた。

 男は一度だけ短く頷く。

「“関係者として当然”とのことです」

 志穂の顔色が真っ青になった。

 代理人は続ける。

「また——」

 間を置いた。

「新堂家の一部親族より、
 “真理様に代わり、妹である志穂様を
 候補として検討してはどうか”
 というご意見が上がっていることも……
 併せてお伝えするよう命じられております」

 志穂の膝がガクッと折れ、
 ソファの背に手をついた。

 息が詰まり、
 涙が一気に込み上げた。

(……妹を……
 候補に……?
 わたし……既婚なのに……?)

 頭が真っ白になる。

 悠真は静かに口を開いた。

「……冗談を言うのは、
 新堂家の家印だけにしていただきたい」

 低く、冷たい声。

 しかし代理人は眉ひとつ動かさない。

「冗談ではございません。
 “家同士の面子のため”の案であり、
 “志穂様の現在のご結婚状況については柔軟に対応する”
 ……そのように先方は」

 志穂の心臓が
 ギュッと握られたように痛む。

(柔軟……?
 離縁……?
 わたし……壊される……?)

 志穂の目に涙が溜まり、
 顔が伏せられた。



「——言っておきます」

 悠真が一歩、前に出た。

 その気配に、
 代理人が微かに身を引く。

「志穂は、
 俺の妻です」

「……承知しております」

「離縁など——あり得ない」

「それは一条家側のご意向として
 先方にもお伝えいたします」

 淡々としているが、
 彼の言葉の“裏”にある圧は明らかだった。

(新堂家は……
 本気で志穂を奪うつもりなんだ)

 志穂の胸が冷たく締め付けられる。

 代理人は最後に
 もう一通の紙を差し出した。

「なお、
 “志穂様には本件に関し、
   真理様とは別個に事情聴取を行いたい”
 という希望も付記されております」

 志穂は息を呑んだ。

(……わたし……
 一人で呼ばれるの……?)

 怖い。
 逃げたい。
 でも足が動かない。



 代理人は深く一礼した。

「以上が、正式な通達です。
 三日後、会場にてお待ちしております」

 扉が閉まった瞬間——

 静寂。

 ただの静けさではない。
 “嵐の前の静寂”。

 志穂はその場に崩れ落ち、
 涙が止まらなくなった。

「……わたし……
 どうなるの……?」

 消え入りそうな声。

 それに悠真はすぐ寄り添い、
 手を伸ばして——
 だが、触れる前で止めた。

(いま触れたら……
 泣き崩れてしまう)

 だから代わりに
 そっと、志穂のそばに座った。

「……大丈夫だ。
 絶対に守る」

 低く、確かな声。

 志穂は震える唇でつぶやいた。

「でも……
 わたし…………
 もう怖いの……」

 悠真はゆっくりと息を吸い、
 初めて彼女の肩に手を置いた。

 その手のひらは熱く、
 しかし優しかった。

「……怖がっていい。
 でも——離れないで」

 その言葉に、
 志穂の涙がこぼれ落ちた。

 新堂家が正式に動いた夜、
 ふたりは初めて“同じ恐怖”を共有した。

 けれど——
 この恐怖こそが、
 ふたりを強く結びつける前触れだった。
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