『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第39章「マンション前の影(晶司の初接触)」

 その夜の空気は、
 昼間よりずっと冷たかった。

 志穂は小さな買い物袋を抱え、
 マンションのエントランスへと歩いていた。

 街灯がひとつだけ灯る薄暗い歩道。
 人影はない。
 風が吹くたび、木々がざわりと揺れる。

(……早く帰って、シャワー浴びて……
 少しだけ……眠りたい)

 そんなことを考えた瞬間だった。

 マンションの玄関脇、
 街灯の死角から“人影”がゆっくり動いた。

 背筋が、すっと冷える。

(……誰……?)

 足が止まる。
 喉がひりつく。

 その影は、
 ゆっくりと街灯の下へ歩み出てきた。

 黒いコート。
 整った黒髪。
 整然とした立ち姿。

 そして——

 表情が、まったく、ない。

 完全な無表情。
 目の奥も、声の色も、氷のように冷たい。

 志穂は息を呑んだ。

「……」

 男はしばらく見つめてきたあと、
 一歩だけ、ゆっくりと近づいた。

 足音は小さいのに、
 圧だけが大きい。

 そして——
 その口が静かに開いた。



「……やっと会えました。

 あなたのことは……前から興味がありました」



 無機質な声だった。

 淡々としていて、
 嬉しそうでも、怒っているわけでも、
 感情がひとかけらも見えない。

(……興味……?)

 背中に冷たいものが走った。

「……あ、あの……どなた……ですか……?」

 声が震える。

 男は静かに名乗った。

「新堂晶司と申します。
 真理さんの——元、婚約者です」

 志穂の心臓が跳ねた。

 つい、買い物袋を取り落とした。
 カランと小さな音を立てて床に転がる。

「あ……」

 拾おうとした瞬間、
 晶司がさらに半歩、距離を詰めた。

 志穂は思わず後ずさる。

(近い……近い……!)

「あなたに……どうしても会いたかった」

 淡々とした口調なのに、
 言葉だけが妙に深く刺さる。

「真理さんとは……
 もう、お会いできないので」

(……だから、妹のわたしに……?)

 胸が締めつけられる。

 晶司は、じっと志穂を見下ろした。

「……あなたの目。
 真理さんにはなかった、柔らかさがある」

 それは褒め言葉なのに、
 恐怖しか感じない声。

「優しすぎる人は……
 どこか、壊れてしまいそうで魅力的だ」

(……こわい)

 志穂は息を詰め、
 一歩下がろうとした。

 だが——

 晶司の手が志穂の手元へ伸びた。

 逃げる暇もなく、
 落とした買い物袋の横で
 志穂の手首をそっと掴む。

 ぎゅっとではない。
 優しいのに、逃がさない。

「……少しだけ、お時間いただけますか」

 志穂の喉が詰まった。

(いや……いや……違う……)

 腕が震える。
 足も震える。

 声も出ない。

 街灯の下、
 晶司はまるで静かな影のようだった。



 その瞬間。

 後ろから——
 地面を強く蹴る 走る音 が近づいてきた。

「……離せ。」

 低く、冷たく、怒りで震えた男の声。

 志穂は振り返った。

 

悠真だった。

 

 表情が……今まで見たことがないほど、冷たい。

 拳は強く握られ、
 目は晶司を射抜くように細められている。

「志穂の手を——離せ」

 静かで、
 殺気すら帯びた声。

 晶司がゆっくりと志穂から手を離す。

「……ああ。
 ご主人でしたか」

 まるで何とも思っていないような声。

「心配なさらず。
 ただ……話をしていただけですよ」

 悠真の怒気が、
 空気を震わせた。

「志穂は……
 あなたと話す必要はない」

 志穂は震えたまま、
 ただその背中を見ることしかできなかった。
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