『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第4章 「完璧な姉、真理」

 志穂が実家に呼ばれたのは、久しぶりだった。

 一条家の大理石のホールには、ガラスのシャンデリアが光を零し、
 玄関の扉が閉まるたびに微かな風が白いカーテンを揺らす。

「志穂、こっちよ」

 軽やかな声がして顔を上げると、
 階段の上から、真理がゆったりと微笑みながら降りてきた。

 少し伸びた栗色の髪、落ち着いた水色のワンピース。
 姿勢は美しく、歩くたびに裾が柔らかく揺れる。

 ――完璧。
 どこにいても目を引く、圧倒的な“華”。

「お姉ちゃん、おかえりなさい……!」

 志穂が駆け寄ると、真理は温かな腕で抱きしめてくれた。

「ただいま。ヨーロッパの仕事が長引いちゃって、ごめんね。
 結婚式も出られなかったし……本当におめでとう、志穂」

「ありがとう、お姉ちゃん」

 その瞬間、
 奥のホールで父と話していた悠真が、こちらへ歩いてきた。

 黒いスーツ姿。背は高く、歩調は静かで落ち着いている。

 そして――
 真理の姿を見た途端、わずかに目を見開いた。

「……真理さん。ご無沙汰しています」

「悠真くん。相変わらず仕事が忙しいみたいね」

 真理は優雅に微笑みながら言う。
 悠真は静かに会釈し、その視線は真理の横顔へ向いていた。

(……やっぱり)

 心臓が、少し沈む。

 美しくて、人に慕われて、昔から誰より完璧な姉。
 志穂はずっと、誰かと比べられるたびに小さくなる自分を感じてきた。

 そして――悠真までも。

「志穂、座りましょう。母さんも呼ぶわね」

 真理に手を引かれ、三人で応接室へ向かう。
 その途中、志穂は横歩きする悠真の表情をちらりと見た。

 ――どこか懐かしむような、柔らかい表情。

 胸の奥がきゅっと痛んだ。



 応接室に入ると、
 母が持ってきた焼き菓子の香りが部屋に広がっていた。

「志穂、少し痩せたんじゃない?」

「最近ちょっと忙しくて……」

「無理ばかりしないのよ。悠真くん、ちゃんと見てあげてね?」

「……はい」

 一瞬だけ、悠真の返事が遅れた。
 その視線は、なぜか真理の方へ向いている。

(どうして……?)

 家族全員が集まり、他愛ない会話が続く。
 けれど、志穂の耳には何ひとつ入ってこない。

 真理が笑うたび、
 悠真が話しかけられて答えるたび、

 胸に刺さるようなざわめきが広がっていく。

「ところで悠真くん、昔のこと覚えてる?」

 真理が紅茶を置きながら言った。

「昔の……?」

「志穂が小さい頃、庭でよく転んで泣いてたでしょ?
 そのたびに悠真くん、あの子に絆創膏貼ってあげてたのよ」

「……はい。覚えてます」

 淡々とした声。
 けれど、その目がほんの少し柔らいだ。

(お姉ちゃんと話すとき、表情が違う……)

 志穂はカップを持つ手が震えるのを、自分で止められなかった。

 母が笑いながら続ける。

「真理のこと、昔から悠真くんはよく見るのよね。
 ほら、真理は志穂の二倍はしっかりしてるから」

「お母さん……」

 軽い冗談なのに、
 その言葉が胸に重く落ちた。

(悠真さんがずっと見てきたのは……私じゃなくて、お姉ちゃん)

 息が少しだけ詰まる。



 帰り際。
 玄関でコートの襟を直していると、真理がふと志穂の腕に触れた。

「志穂。……ねえ、ちゃんと幸せに暮らしてる?」

「え……?」

「あなた、なんでも気にするタイプだから。
 もし不安があるなら、ちゃんと悠真くんと話しなさいね」

「……大丈夫。うまくやってるよ」

 本当はうまくやれていない。
 “夫婦らしい会話”も、“愛情”と呼べるものも、まだ何もない。

 けれど、姉には言えない。

 真理が微笑んで言う。

「志穂は可愛いんだから、自信を持ちなさい」

「……ありがとう、お姉ちゃん」

 その後ろで、悠真が会釈をして車へ向かう。
 真理はその背に向かってひとつ手を振る。

「明日からまた頑張るのよ、悠真くん」

「はい。……真理さんも」

 志穂の胸がまた、小さく痛んだ。

 車に乗り込んだあと、
 窓越しに見える姉の姿が、光の中に滲んで見えた。

(どうして……こんなに苦しいのかな)

 たった一言、
 “愛してる”と聞けるだけで――
 こんなにも救われるのに。

 車がゆっくりと走り出す。
 志穂は、その指先で婚約指輪をそっと撫でた。
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