『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』
第41章「志穂、泣いてしまう夜(胸の奥に届いた言葉)」
マンションへ戻るエレベーターの中、
志穂はずっと手をぎゅっと握りしめていた。
震えはもう止まっているはずなのに、
胸の鼓動だけは落ち着かない。
(……悠真くん……
あんなふうに……怒ってくれた……)
あの瞬間のことを思い出すだけで、
息が詰まりそうになる。
街灯の下。
晶司の冷たい手が自分の手首を掴んだ時——
助けを呼ぶ声は出なかった。
でも。
『志穂を守るのは、俺だ。
永遠に。他の誰でもない。俺が』
(あんな……
あんな言い方……されたら……)
思い出しただけで、
胸が熱くなる。
自宅の部屋に入ると、
靴を脱ぐ手が少し震えていた。
「……志穂」
後ろから、
優しく呼ぶ声。
振り返ると、
悠真が心配そうに見ていた。
さっきまでの鋭い怒りの影はなく、
今はただ——
“心配している夫”の瞳だった。
「もう……大丈夫だ。
怖い思いをさせて、悪かった」
その一言で、
胸がきゅっと締めつけられる。
「……こわかった……けど……」
言いながら、
喉が詰まる。
「でも……あなたが来てくれて……
すごく……安心したの」
悠真の表情が少し緩む。
だが——
言いたいことが多すぎて
うまく言葉にならない。
(さっきの言葉……
“永遠に守る”なんて……)
(もし……
あれが……
“好き”と同じくらいの気持ちで言ってくれたなら……)
期待してしまう自分が嫌だった。
(違う。
あれは……責任感とか、
守るべきものに対する義務……そういうものかもしれない)
でも——
心は勝手に震えてしまう。
リビングに入った瞬間、
志穂は思わず振り返った。
「……あの……」
言いかけて、声が弱くなる。
(なんて言えばいいの……?)
(“ありがとう”だけじゃ……
足りない気がする)
(でも、“好き”と言ってほしいなんて……
いま言えるはずもない)
胸の奥で、
言葉が絡まってほどけない。
そんな志穂を見て、
悠真は静かに近づいてきた。
「……志穂。
今日は……もう、泣いていい」
「……っ……」
その声が、
心の奥の一番痛い場所に触れた。
泣いてもいい、と言われて——
涙が堰を切ったように溢れた。
「……ごめん……
わたし……弱くて……」
「弱くなんかない」
「でも……
こんなことで……泣いちゃって……」
「こんなことで、じゃない」
悠真の声は低く、優しく、揺るがない。
「怖かっただろ。
知らない男に腕を掴まれて、
言い方も……怖くて……
逃げられなかったんだろ」
「うん……
こわかった……こわかったよ……」
堪えていた涙がとまらなくなる。
(本当は……
抱きしめてほしい……)
(違う……
今日の涙は、そうじゃない……)
ようやく自分でも気づいた。
(怖かったのは——
悠真くんが来る前の“わたし”だった)
(誰も助けに来なくて、
声も出せなくて、
ただ怯えて震えてた……わたし)
(そのわたしを……
悠真くんが、助けてくれた……)
「……ほんとに……来てくれて……
ありがと……」
涙でくぐもった声。
悠真はゆっくりと手を伸ばし、
志穂の頬に触れようとして——
一度、ためらった。
(触れて……いいのかな)
その“ためらい”が、
志穂の胸をさらに締めつける。
(どうして……
そこだけ……優しいの……)
涙が零れ落ちる。
「志穂」
名を呼ぶ声が静かで、
深く響いた。
「……泣いていい。
今日は……俺のそばにいろ。」
「……そばに?」
「怖い思いをした日の夜に
ひとりで泣かせるわけないだろ」
その言い方があまりに優しくて、
志穂は胸がぎゅうっと痛くなった。
(……どうしてこんなに……
優しいの……?)
(…こんなふうに言うなんて……)
泣きたくなるほど嬉しくて、
泣きたくなるほど苦しい。
志穂は、
涙の中で小さく頷いた。
「……うん……
そばに……いたい……」
その一言が、
夜の静けさに溶けていく。
志穂は、
初めて“誰かに寄りかかる”ように
悠真の胸に手を伸ばした。
震える指先を、
悠真がそっと受け止める。
この夜——
志穂は泣き疲れて眠る。
そして悠真は、
その隣で静かに目を伏せ、
胸の奥でひとつの誓いを立てた。