『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第42章「晶司の静かな狂気(興味が執着へ)」

 夜道を歩きながら、
 新堂晶司はとくに急いでもいなかった。

 濡れたような黒髪が、
 街灯を受けて鈍く光る。

 足取りは一定。
 呼吸も乱れていない。

 志穂が涙で震えていたあの顔を、
 数分に一度——
 脳裏で静かに思い返していた。

「……柔らかい目をする」

 ぽつりと、ひとりごとのように呟いた。

 怒りでも、嫉妬でも、恋でもない。

 ただ——
 “興味”の色だけが深く沈んでいく。

 真理の瞳とは違う。

 真理は強かった。
 硬質で、揺れなくて、
 自分に対しても迷いがなかった。

 だが志穂は。

「……脆い」

 その言葉を、
 晶司はまるで宝石を愛でるように呟く。

「壊れそうなのに……
 懸命に立とうとする……あの目」

 足を止める。

 街灯の下で、
 晶司の横顔だけが白く照らし出される。

 無表情。
 だがその眼差しだけは、
 わずかに光っている。

 それが人を惹きつける光か、
 崩す光かは誰にもわからない。



「……悠真さん、でしたか」

 晶司は静かに首を傾けた。

「妻を守る、と。
 永遠に。
 他の誰でもない。
 ……ふむ」

 口調は淡々としている。

 怒りも、妬みもない。

 だが、
 その静けさが狂気より怖い。

「あの程度の感情で……
 志穂さんは救えない」

 街灯の光がわずかに揺れる。

「繊細な人間は……
 “愛してる” の言葉ひとつで吸い込まれていく」

 淡々とした声に、
 寒気すら宿る。

「言えないのなら——
 いずれ、誰かに奪われる。」

 晶司はその“誰か”が自分とは言わない。
 言わないが。

 心の奥では静かにそう思っていた。



 ふと、
 胸ポケットの中でスマホが震える。

 画面には、新堂家の叔父からの名前。

 晶司は無表情のまま通話を取り、
 少しも急がず歩きながら話す。

「……はい、晶司です」

『——三者会談の件だがな。
 志穂さんには“妹としての責務”を理解していただきたい』

「責務、ですか」

『ああ。
 真理さんと破談になった以上、
 妹さんのほうで話をまとめるべきだという意見が強い』

「……そうですか」

 晶司の声は冷たい。

『我々は、志穂さんを悪いようにはしない。
 嫁いできていただければ——』

「叔父上」

 晶司が歩みを止めた。

「志穂さんは……
 そういう女性ではありません」

『なに?』

「“家の利益”で動く人ではない。
 あの人は……心で動く」

『……心?』

「ええ」

 晶司の唇が、
 かすかに笑った。

「だから……興味深い」

『……おまえ、まさか——』

「いえ。
 ただの観察です」

 晶司の声には、
 熱はない。

 ただし、温度がないのに——
 どこか濃密な“執着”が漂っていた。



(志穂さん……)

(あの涙……あの震え……
 あの儚さは……)

(真理さんとは、本当に違う)

(あの目は……
 “求めている目”だ)

 愛を。
 安心を。
 存在を認められる言葉を。

「……ああいう目の女性は……
 簡単に、誰かの言葉で崩れる」

 晶司の声は静かで、
 風より柔らかい。

「そして。
 崩れる瞬間が……一番、美しい」

 狂気ではない。
 恋ではない。

 ただの“美意識”。

 しかしそれが何よりも危険だった。



晶司はゆっくりと歩き出す。

 マンションの影へ、
 志穂がいる方向へではなく、

——志穂の“心”がある方へ。

(また……会いたい)

(もう一度、あの目を見たい)

(あの震えを……間近で見たい)

 その欲望は、
 愛ではない。

 恋ではない。

 救いでも、興味でもない。

ただ——

“壊れる瞬間を知りたい”
 という静かな狂気。

 それだけが、
 新堂晶司の足を進めていた。
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