『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第46章「志穂、揺れたまま出社(新たな噂)」

 朝の出社ラッシュ。
 ビルの自動ドアが開くたび、
 涼しい空調の風が流れてくる。

 志穂はバッグを抱きしめるように持ち、
 少し背筋を硬くしたままオフィスに入った。

(大丈夫……
 昨日みたいなこと、もうない……)

(悠真くんも……
 傍にいてくれるって言ってくれたし……)

 思い出すだけで、胸が温かくなる。
 けれどそれとは別に、
 背中に小さな寒気がまだ残っていた。

(晶司さん……
 本当にまた来たりしないよね……?)

 胸がざわつく。
 深呼吸をして、席に向かう。



「おはよう、志穂ちゃん」

「……おはようございます」

 同僚の女性・春名が、コーヒーカップを持ちながら近づいてくる。

「ねぇ……ちょっと聞いていい?」

「えっ……?」

「昨日さ、夜にエントランスで……
 誰かと話してなかった?」

 志穂は肩がぴくっと震えた。

「だ、誰かって……?」

「なんかね、
 スーツの男の人と。
 すごく近い距離だったって聞いたけど……」

(……っ)

 心臓が大きく跳ねる。

「ま、まさか……
 社内の人が見て……?」

「うん。
 “すごいイケメンだった”って話題になってた」

(晶司さん……
 見られてた……?)

 背中に冷たい汗が流れた。

「でね……」

 春名は声を潜めた。

「“志穂ちゃん、別の男の影がある?”
 って、女子の間でちょっと……」

「……そんな……!」

 声が裏返る。

 そんなつもりなんて……
 そんなこと、絶対にありえないのに。

(どうしよう……
 悠真くん、知ったら……?)

 胸の奥がぎゅっと縮む。

(お願い……
 これ以上、誰も誤解しないで……)



 席に着こうとした時だった。

「……志穂さん」

 背中に聞き覚えのない男性の声。

 ゆっくり振り向くと、
 営業部の佐伯が立っていた。

 いつもは軽い雰囲気の彼が、
 今日は妙に真剣な顔をしている。

「昨日……大丈夫でした?」

「え……?」

「あのエントランスのところ。
 少し……危なそうに見えたので」

 志穂の手が震えた。

「見、見て……?」

「ああ。
 声は聞こえなかったけど……
 相手の目が、なんか……
 怖い感じで」

(見られてた……本当に……)

「もし何かあったら、言ってください。
 俺……同じフロアですから」

 柔らかい声なのに、
 その言葉に志穂は逆に不安になった。

(誰かに見られるのも……怖い……)

(晶司さん……
 あの距離で立たれてたら……
 誰が見ても“怪しい”って……)



 席に戻って、パソコンを開く。
 でも画面は曇って見える。

(悠真くんに……言わなきゃ……)

 その瞬間——

ピッ

 スマホが震えた。

(っ……!
 まさか……晶司さん……?)

 恐る恐る画面を見る。

《悠真》

“今、会社に着いた。
 ……何かあったらすぐ連絡しろ。”

 それだけの短いメッセージなのに、
 一瞬で身体の力が抜ける。

(……良かった……
 悠真くん……)

 胸の奥の緊張が少しだけ和らいだ。

 でも同時に、
 耳元でふっと囁くような“影”がよぎる。

(……誰かに見られてる気がする)

(まさか……
 本当に来てたり……?)

 志穂はそっと窓の外を見る。

 ビルの下。
 小さな人影が行き交うオフィス街。

 その中に——
 黒いコートの男が、
 ゆっくりとこちらを見上げているように見えた。

(……っ)

 目をこすって、
 もう一度見下ろす。

 そこには、誰もいなかった。

(……気のせい……?)

 胸がじくじくと痛む。

(もしかして……
 わたし……
 本当に狙われてる……?)

 小さな恐怖が
 じわ、と足元から上がってきた。
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