『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』
第5章 「わかりにくい優しさ」
午後の役員会議が終わり、
志穂は資料の束を両腕に抱えて父の部屋を出た。
廊下は静かで、高層階ならではの夜景がガラス越しに広がっている。
ネオンがぼんやりと滲み、少し疲れた目に優しく映った。
(……重いな)
抱えていた書類の端が腕に食いこむ。
力を入れすぎて指先が白くなっていた。
エレベーターホールに向かおうとした時――
「志穂」
急に腕をつかまれ、志穂は驚いて振り返る。
「ゆ、悠真さん……?」
いつもの副社長の落ち着いた顔。
けれど、その眉間はわずかに険しい。
「そんな山ほどの資料、ひとりで持つな」
「え……だ、大丈夫です」
「大丈夫じゃない。見ればわかる」
志穂の腕から資料を奪い取るようにして抱え込む。
その手つきがあまりにも自然で、
昔――庭で転びそうになった自分を支えてくれた時を思い出す。
(どうして……こんな優しさを向けるの?)
胸がきゅっと痛む。
「ほら、行くぞ」
歩き出した悠真の背中を、志穂は急いで追いかけた。
「……すみません。手を煩わせて」
「別に。煩ってはいない」
「でも……忙しいのに」
「忙しくても、君のことは放っておけない」
「……!」
その言葉があまりにも自然で、
志穂は思わず足を止めてしまう。
(どうしてそんなこと……言うの?
私の気持ちなんて、知らないくせに)
喉が少し熱くなる。
「ほら、来い」
悠真は振り返らずに言った。
その顔の見えない背中に、
志穂はどうしても聞きたい言葉を重ねてしまう。
「……ねえ、悠真さん」
「なんだ」
「もし……私がいなくなったら、困りますか?」
足が止まる。
廊下の静寂が一瞬だけ濃くなる。
「いなくなる……? どういう意味だ」
「その……ただの話です。仮定の話」
「仮定でも嫌だ」
「え……?」
「君がいなくなるのは困る。……当たり前だろう」
その声音は低くて、真剣だった。
でも――志穂の心には届かない。
「“家のため”ですか? それとも……」
「違う」
即答だった。
その一言に、志穂の鼓動が大きく跳ねる。
「じゃあ……どうして?」
「……」
答えられない沈黙。
けれど、その沈黙こそが、志穂には一番つらかった。
(結局……“愛してる”とは言えないんだ)
はっきり言われたわけではないのに、
心が勝手に結論を下してしまう。
資料を悠真の執務室へ運び終えると、
悠真はデスクに置かれたコーヒーを志穂に差し出した。
「飲め。今日は冷える」
「……ありがとうございます」
志穂がカップを両手で包むと、
悠真は少しだけ視線を落とした。
「……昼、食べただろうかと思って」
「え?」
「最近……あまり食べてない気がしたから」
「そ、そんな……ちゃんと食べてます」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶんでは駄目だ」
叱るようで、でも声は優しい。
(こんなふうに気にしてくれるのに……どうして“好き”って言ってくれないの?)
心の中の声が、何度も何度もこだまする。
その時――
部屋の外から、女性の声が聞こえた。
「――副社長、お時間よろしいですか?」
志穂はびくりと肩を震わせる。
昨日の夜、見た“女性と話す悠真の姿”が脳裏に蘇る。
ガラス越しのシルエット。
柔らかい声で優しく話す彼。
(まさか……今日も?)
胸が痛むどころか、凍りつく。
悠真は志穂を見ることもなく、
書類を整えて扉の方へ向かった。
「少し話してくる。……その間、ここで待っていてくれ」
「え……」
「志穂だけ置いて行くわけにはいかない。すぐ戻る」
言い方は優しいのに、
“私を置いて別の女性と会う理由”にはならない。
扉が閉まる音がして、
静寂が落ちた。
志穂は震える指先で、コーヒーのカップを見つめた。
(どうして……?
どうして私じゃなくて――?
……?)
胸が苦しくなり、息が浅くなる。
わかりにくい優しさは、
ときに、残酷より残酷になる。
遠くで聞こえた女性の声が、
志穂の心の糸を、静かに引き裂いていった。
志穂は資料の束を両腕に抱えて父の部屋を出た。
廊下は静かで、高層階ならではの夜景がガラス越しに広がっている。
ネオンがぼんやりと滲み、少し疲れた目に優しく映った。
(……重いな)
抱えていた書類の端が腕に食いこむ。
力を入れすぎて指先が白くなっていた。
エレベーターホールに向かおうとした時――
「志穂」
急に腕をつかまれ、志穂は驚いて振り返る。
「ゆ、悠真さん……?」
いつもの副社長の落ち着いた顔。
けれど、その眉間はわずかに険しい。
「そんな山ほどの資料、ひとりで持つな」
「え……だ、大丈夫です」
「大丈夫じゃない。見ればわかる」
志穂の腕から資料を奪い取るようにして抱え込む。
その手つきがあまりにも自然で、
昔――庭で転びそうになった自分を支えてくれた時を思い出す。
(どうして……こんな優しさを向けるの?)
胸がきゅっと痛む。
「ほら、行くぞ」
歩き出した悠真の背中を、志穂は急いで追いかけた。
「……すみません。手を煩わせて」
「別に。煩ってはいない」
「でも……忙しいのに」
「忙しくても、君のことは放っておけない」
「……!」
その言葉があまりにも自然で、
志穂は思わず足を止めてしまう。
(どうしてそんなこと……言うの?
私の気持ちなんて、知らないくせに)
喉が少し熱くなる。
「ほら、来い」
悠真は振り返らずに言った。
その顔の見えない背中に、
志穂はどうしても聞きたい言葉を重ねてしまう。
「……ねえ、悠真さん」
「なんだ」
「もし……私がいなくなったら、困りますか?」
足が止まる。
廊下の静寂が一瞬だけ濃くなる。
「いなくなる……? どういう意味だ」
「その……ただの話です。仮定の話」
「仮定でも嫌だ」
「え……?」
「君がいなくなるのは困る。……当たり前だろう」
その声音は低くて、真剣だった。
でも――志穂の心には届かない。
「“家のため”ですか? それとも……」
「違う」
即答だった。
その一言に、志穂の鼓動が大きく跳ねる。
「じゃあ……どうして?」
「……」
答えられない沈黙。
けれど、その沈黙こそが、志穂には一番つらかった。
(結局……“愛してる”とは言えないんだ)
はっきり言われたわけではないのに、
心が勝手に結論を下してしまう。
資料を悠真の執務室へ運び終えると、
悠真はデスクに置かれたコーヒーを志穂に差し出した。
「飲め。今日は冷える」
「……ありがとうございます」
志穂がカップを両手で包むと、
悠真は少しだけ視線を落とした。
「……昼、食べただろうかと思って」
「え?」
「最近……あまり食べてない気がしたから」
「そ、そんな……ちゃんと食べてます」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶんでは駄目だ」
叱るようで、でも声は優しい。
(こんなふうに気にしてくれるのに……どうして“好き”って言ってくれないの?)
心の中の声が、何度も何度もこだまする。
その時――
部屋の外から、女性の声が聞こえた。
「――副社長、お時間よろしいですか?」
志穂はびくりと肩を震わせる。
昨日の夜、見た“女性と話す悠真の姿”が脳裏に蘇る。
ガラス越しのシルエット。
柔らかい声で優しく話す彼。
(まさか……今日も?)
胸が痛むどころか、凍りつく。
悠真は志穂を見ることもなく、
書類を整えて扉の方へ向かった。
「少し話してくる。……その間、ここで待っていてくれ」
「え……」
「志穂だけ置いて行くわけにはいかない。すぐ戻る」
言い方は優しいのに、
“私を置いて別の女性と会う理由”にはならない。
扉が閉まる音がして、
静寂が落ちた。
志穂は震える指先で、コーヒーのカップを見つめた。
(どうして……?
どうして私じゃなくて――?
……?)
胸が苦しくなり、息が浅くなる。
わかりにくい優しさは、
ときに、残酷より残酷になる。
遠くで聞こえた女性の声が、
志穂の心の糸を、静かに引き裂いていった。