『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』
第51章「晶司、帰り道での接触開始」
夕暮れの街。
オフィスビルの影が細長く伸び、
人の気配が少しずつ薄くなる。
志穂は、胸にバッグを抱きしめるようにして歩いていた。
(早く……帰らなきゃ……
悠真くん、今日は会議って言ってたけど……
きっと連絡くれる……)
けれど、足が少し震える。
(なんでだろう……
朝より……不安……)
昼休みに真理と話せたのは救いだった。
でも――
(真理姉が“危険”って言ったから……
余計に怖くなってる……のかな)
空気が冷たくなり、
志穂はカーディガンを強く握った。
そのとき――
「……志穂さん」
背後から、
優しいのに異様に静かな声が落ちてきた。
志穂の足が止まる。
(……っ……!
この声……)
振り返ることもできない。
ただ、体が硬直する。
「昨日は……驚かせてしまいましたね」
ゆっくりと近づいてくる足音。
コツ、コツ、と
一定のリズムで響く。
志穂は息を殺した。
(やだ……やだ……
来ないで……)
でも声が震えて出てこない。
「……謝りに来ました」
その言葉の柔らかさが、
余計に怖かった。
ゆっくりと振り返ると、
そこには黒いコートに身を包んだ晶司が立っていた。
笑っているのか、
笑っていないのか分からない表情。
ただ、その瞳だけがまっすぐで――
深すぎて、飲み込まれそうだった。
「昨日は……失礼しました。
驚きましたよね。
夜道で……名前を呼ばれたら」
(っ……!
どうして……
そんなに冷静なの……)
「腕を掴んでしまったのも……
良くなかった」
晶司は一歩、志穂に近づく。
距離はまだ六歩くらい。
でも――近い。
「本当に……すまなかったと思っています」
(謝ってる……?
でも……声の奥が……冷たい……)
その違和感が全身を刺す。
「あなたを……
“怖がらせた”ことだけは……謝罪します」
だけ、という言い方。
そこに含まれた意味が、怖い。
「……どうか……
もう少し話をさせてもらえませんか?」
志穂の喉が、ぎゅっと詰まった。
「……あの……
ごめんなさい……
急いでて……」
「急いでいても……
“一言だけ”でいいんです」
晶司の声は静かで、優しい。
だからこそ逃げ場がない。
「あなたが……
昨日どれほど怖かったか。
それを知りたいだけなんです」
(知らなくていい……
あなたは……知らなくていい……!)
心の中で叫ぶのに声が出ない。
「……志穂さん」
晶司がさらに一歩近づく。
街灯の明かりがその横顔を照らし、
まるで影が揺れたように見えた。
「あなたが泣きそうだったあの顔が……
どうしても忘れられない」
鳥肌が立つ。
(どうして……
どうしてそんなこと言えるの……?)
「あなたは……美しい」
「……っ」
「怯えた目も……
震える声も……
誰かを求める手も……」
晶司の瞳が、わずかに光る。
「全部……
“守りたくなる”」
その言葉は甘く、
けれど優しさとは違った。
もっと重く、
どこか歪んでいた。
「……やめて……」
絞り出すように声を出す。
晶司は驚くことも、怒ることもせず
ただ静かに首を傾けた。
「どうして?」
「こ……怖い……」
言ってしまった。
その瞬間、晶司の瞳がわずかに細まる。
そして――
ゆっくりと笑った。
「……その言葉も、
思っていた通りだ」
その笑顔は優しげなのに、
心の底が凍るほど冷たかった。
「大丈夫ですよ、志穂さん」
囁くような声で言う。
「あなたは“俺が守ります”。
いずれ……必ず」
その言い方が、
ひどく怖かった。
(守る……?
なんで……
そんなに確信してるの……?)
志穂はその場で後ずさり、
震える声を出した。
「……行かないと……
ほんとに……」
「また会いましょう」
晶司は追ってこない。
だから逆に怖かった。
「次は……
もう少し近くで話しましょうね」
志穂は駆け出した。
手が震える。
涙がにじむ。
(悠真くん……
助けて……)
胸の中で名前を呼ぶことしかできなかった。