『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第52章「志穂、震えながら帰宅(悠真の怒りの爆発)」


 志穂は早足でマンションのエントランスに駆け込んだ。

 大理石の床に自分の足音が響くたび、
 心臓も一緒に ドン、ドン と跳ねあがる。

(怖かった……
 本当に……怖かった……)

 バッグを抱きしめる腕が震えている。
 エレベーターの閉まるドアを、
 ほとんど泣きながら見つめていた。

「……悠真くん……」

 声が震えて出た名前は、
 助けを求めるような小さなものだった。



 自宅の前まで来ると、
 玄関灯がついていた。

(いる……
 悠真くん、まだ帰ってる……)

 安堵がわずかに胸に流れ、
 鍵を回す手が震えて空回りする。

「……っ……開いて……!」

 ようやくドアが開いた瞬間、

「志穂!」

 名を呼ぶ声に、
 志穂の肩がびくっと跳ねた。

 リビングから出てきた悠真は、
 ジャケットのまま、ネクタイも緩めていない。

 帰ってすぐ待っていたのだと
 すぐにわかる格好だった。

「……おかえり」

 その声は低く、
 抑えているのに震えている。

「遅かった……
 連絡……返ってこなかった……」

 言葉とは裏腹に、
 彼の目は明らかに“怒りと不安”で荒れていた。

(……怒ってる……?
 いや……怒ってるんじゃない……
 怖がってる……)



「志穂……どうした?」

「な、なんでも……」

「嘘だ」

 即答だった。

「顔が真っ青だ。
 手も震えてる。
 ……誰かに、何かされた?」

 志穂の喉が詰まった。

「……っ……」

「誰だ」

 声が低く落ちる。

「――職場か。
 それとも……またあの男か」

(“また”……
 やっぱり気づいてた……)

「……違うの……
 何も……何もされてない……」

「されてないのにその顔になるか」

 悠真が歩み寄る。

 視線が鋭すぎて、
 でもどこか必死で。

「志穂……言え」

「……っ」

「お願いだ……教えてくれ」

 その“お願いだ”は、
 怒りではなく、
 心底怖がっている声だった。

(どうして……
 こんな顔……)

 胸が痛くなる。



「……会ったの……」

「……誰に」

「し、晶司さんに……」

 言った瞬間、
 悠真の瞳が、
 見たこともないほど鋭く光った。

「……またか」

 声が低く落ちる。

「どこで」

「ビルの前の……道で……
 呼ばれて……近づいてきて……
 謝るって言ってたけど……」

「謝るだと?」

 こめかみの筋肉が、
 怒りでわずかに動く。

「何をされた」

「な、何もされてない……
 でも……
 怖かった……
 声が冷たくて……
 笑ってるのに……
 なに考えてるかわからなくて……」

 堪えきれず、
 志穂の目から涙がこぼれた。

「……っ」

 悠真の指先が、
 悔しさに震える。

(守れなかった……
 今日も……また……)

「志穂」

 彼はそっと彼女の頬に触れた。

 優しいのに、
 触れた指が熱くて震えている。

「泣くな……
 俺の前で……泣くな……
 こんな理由で……」

「ごめ……ごめんなさい……」

「謝るな!」

 声が響いて、
 志穂がびくっと震える。

 次の瞬間、

「……違う……
 ごめん……声……荒げた……」

 自分を責めるように
 悠真は目を伏せた。

(怒ってるわけじゃない……
 怖かったんだ……)

 志穂は涙を拭いながら、
 震える声でつぶやいた。

「悠真くん……
 怖かったの……
 ほんとに……」

 その瞬間、
 悠真の顔がぐしゃっと歪んだ。

「……志穂」

 抱き寄せられた。

 強く。
 壊れそうなほど強く。
 でも苦しくない抱き方。

「俺が……
 守れなかった……」

「そんな……」

「許さない」

 耳元で低く、はっきりとした声。

「次、志穂に近づいたら……
 あいつを……絶対に許さない」

 怒りではない。
 “奪われる恐怖からの宣言”。

 志穂の胸が震えた。

(悠真くんが……
 こんな顔で……
 私のこと……)

「志穂……
 おまえのことになると……
 本気で怖くなる……」

 志穂は初めて気づいた。

(悠真くんも……
 わたしがいなくなるの……
 怖いんだ……)

 涙があふれて、
 彼の胸に顔をうずめた。

 静かな部屋で、
 ふたりの震える呼吸だけが響いた。
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