『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第53章「三者会談の前夜」

 夜のリビングは、
 いつもより照明が少し暗かった。

 食器を片づけたあと、
 志穂はテーブルの前に座ったまま、
 指先でカップの縁をなぞっていた。

(……明日、行かなきゃいけない……
 新堂家……)

 胸の奥に、
 冷たい針が刺さったまま抜けない。

(叔父様も……晶司さんも……
 あの家の“空気”も……
 全部……怖い……)

 唇が自然ときゅっと結ばれる。

(……嫌だな……
 明日、絶対に………何かある……)

 そんな不安が消えなかった。



 後ろのキッチンで
 そっと水を飲んでいた悠真が、
 彼女の背中を見つめていた。

 その目は、
 静かな怒りと決意をたたえていた。

(今日の震え……
 忘れられない)

(明日……
 また志穂が怯える顔を見るのか)

(そんなもの……もう二度と見たくない)

 水のグラスを置き、
 悠真は志穂の隣へ歩いた。

「……志穂」

 振り返った志穂の瞳は
 ほんの少し赤く、疲れていた。

「……明日……ね……」

「うん」

「わたし、ちゃんと……
 あなたの隣にいていいのかな……?」

 弱い声。
 その言葉に、悠真の胸が切り裂かれる。

(どうして……
 こんなにも自分を小さくするんだ)

 静かに彼女の隣に腰を下ろした。

「志穂」

 彼女の指が震えているのに気づき、
 そっと手を包んだ。

「おまえは……俺の妻だ」

「……」

「隣にいて“いいのか”じゃない。
 隣に“いるべき”なんだよ」

「……悠真くん……」

「明日、何を言われても……
 何をされても……」

 ゆっくりと顔を上げ、
 志穂の瞳を真っ直ぐ見つめる。

「“おまえを傷つける言葉”があったら、
 全部、俺が跳ね返す」

 その声音は低く、熱く、揺るぎなかった。

 志穂の胸がじんわりと熱くなる。

(……こんなふうに言ってもらえるなんて……
 思わなかった……)

「俺は明日……
 おまえが怯えるのを
 二度と許さないつもりで行く」

 ふたりの距離が
 そっと近づいた。

「……ありがとう……」

 志穂の声は震えながらも、
 確かに安堵が混じっていた。



 その時、
 玄関のチャイムが短く鳴った。

 志穂がびくっと肩を震わせる。

「……っ!」

「大丈夫、俺が出る」

 悠真が立ち上がり、
 ドアを開ける。

 そこに立っていたのは——

「真理さん……?」

 姉の真理だった。

 淡々とした顔の奥に、
 明らかに怒りと不安が混じっている。

「……入っていい?」

「もちろんです」



 リビングに入ると、
 志穂がすぐに立ち上がった。

「おねえちゃん……!」

「志穂」

 真理はスーツの上着を脱ぎ、
 ソファにまっすぐ座った。

 緊張した空気が流れる。

「明日の三者会談……
 私も行くわ」

「えっ……!?」

 志穂は驚き、
 悠真も少し眉を上げた。

「真理さん……
 味方になってくれるんですか?」

「当たり前でしょ」

 真理の声は低く、鋭かった。

「私は……
 晶司があなたに近づいたと聞いた瞬間から、
 黙っていられなかった」

 志穂の瞳が揺れた。

(……おねえちゃん……
 ずっとわかってくれてたんだ……)

「明日の場は……
 あなた一人で抱える場所じゃない」

 真理は志穂と悠真を
 順番に見つめる。

「三人で行く。
 それでやっと……
 全部、終わらせられる」

 静かな宣言だった。

(……三人で……
 戦うんだ……)

 志穂の胸の不安が、
 スッと少しだけ軽くなった。



 その夜、
 志穂は久しぶりに
 誰かに挟まれるようにして眠った。

 右に悠真。
 左に真理。

 二人の温度があるだけで、
 孤独が消えていくようだった。

(明日が怖いけど……
 もう、一人じゃない)

(逃げない……
 ちゃんと向き合う……)

 そう思いながら、
 志穂は静かに目を閉じた。
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