『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』

第6章 夜のラウンジで見たもの

 エレベーターの扉が静かな音を立てて開いた。
 役員フロアの廊下は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。

 時計は、夜の九時半を示していた。

(資料を渡したら、すぐ帰ろう……)

 志穂は厚いファイルを抱え、
 ペタペタと控えめなヒールの音を鳴らしながら歩き始めた。

 廊下の奥、ガラス張りのラウンジ。
 普段なら真っ暗なはずなのに――

 ――灯りがついている。

(……誰かいる?)

 その光だけで、胸がざわつく。

 ゆっくり近づくと、
 ガラス越しに“影”が二つ、揺れているのが見えた。

 ひとつは背の高い男性。
 広い肩、細い腰、癖のない立ち姿。

(……悠真さん?)

 息が止まるようだった。

 そして、彼の向かいに座るのは――
 長い髪を肩に流した、大人びた雰囲気の女性。

 上品で、落ち着いていて、
 角度によっては――どうしても、真理に見えてしまう。

 志穂の胸が、痛みの予感で締めつけられた。

(そんな……どうしてお姉ちゃんが……)

 震える足で、
 ガラスの影にならぬよう、そっと横へずれる。
 けれど耳は、二人の会話を拾ってしまう。

「……わかった。君の言うことは理解した」

 悠真の声だった。
 抑えた低い声。
 普段、志穂には向けられない、柔らかな響き。

「だけど――」

 続く言葉は、驚くほど静かだった。

「君のことは……絶対に守るよ」

 その“君”が誰を指すのか。
 志穂には、考えるまでもなく“真理”だと思えてしまった。

 女性が小さく笑い、
 その影が――悠真の腕に触れたように見えた。

(やめて……やめて……)

 心の中で必死に叫ぶ。
 だけど、声は出ない。

 ガラス越しの光が滲み、
 志穂の目が熱くなる。

(どうして……)

 胸の奥でひびが入るような痛み。
 息が、苦しい。

(どうして私は……“守るよ”なんて言われたこと、ないのに)

 ハイヒールのかかとが、
 かすかにカツ、と鳴ってしまった。

 女性が見上げる。
 その瞬間、志穂は反射的に壁の陰へ飛び込んだ。

(見られた……?)

 鼓動が痛いほど速くなる。
 呼吸が荒い。

 ラウンジの灯りが、
 まだ温かく二人の影を映している。

(――私じゃ、ないんだ)

 志穂は、耐えきれずに背中を丸めた。

(“愛してる”なんて……
 言われるはず、なかったんだ)

 涙が頬に落ち、
 静かな廊下の床に小さな跡を残した。

 ファイルを胸に抱きしめたまま、
 志穂はその場を離れ、エレベーターへ向かって歩き始めた。

 視界が滲んで、
 前がよく見えない。

 最後にもう一度だけ振り返ると――
 ガラス越しに見えた悠真のシルエットが、
 まるで“誰かを大切に守る男”のように見えた。

 その“誰か”が自分ではないと知ることは、
 こんなにも痛いものなのか。

 エレベーターの扉が閉まる瞬間、
 志穂の胸の奥で、かすかに何かが崩れ落ちた
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