『愛してるの一言がほしくて ―幼なじみ新婚はすれ違いだらけ―』
第8章 「噂の始まり」
翌朝。
目覚めた瞬間、志穂の胸にはまだ重たい痛みが残っていた。
(……昨日のこと、夢じゃなかった)
ガラス越しに見えた影。
“守るよ”と誰かに言う悠真。
折れたヒールを支えてくれた強い腕。
全部が胸を掴むように思い出される。
軽く頭を振り、志穂は気持ちを整えるように玄関の鏡をのぞいた。
(……泣いた跡、残ってないかな)
化粧で隠しても、気持ちは誤魔化せなかった。
会社に着き、秘書課のデスクへ向かう途中。
給湯室の方から、女性たちの声が聞こえてきた。
軽い雑談のような響き――
けれど、不思議と胸騒ぎがした。
「聞いた? 昨日の夜の話」
「え? なに?」
「副社長よ。役員フロアで女の人と話してたって。
遅い時間に、ふたりきりで」
「ほんと? しかもその女性、すっごく綺麗だったって聞いたわ」
志穂の足が止まった。
(……っ)
廊下の壁に手をつき、そっと耳を傾けてしまう。
「え、まさか……恋人とか?」
「どうだろうね。
でも、昔から副社長って真理さまのこと“特別視”してたって有名じゃない?」
「やっぱり……そうなんだ」
ザァッ――
頭の中で、砂をかき混ぜるような音がした。
(お姉ちゃん……特別?)
声が震えそうになる。
「志穂さん、かわいいけど……真理さまには敵わないよね」
「ね。もし本当に“真理さま”と副社長が話してたなら、
あの二人……ほんとにお似合いだと思う」
「じゃあ……政略結婚って、やっぱり“形だけ”なのかな?」
(いや……やめて)
一つひとつの言葉が、
胸の奥に鋭く刺さっていく。
指先が冷たくなり、呼吸すら浅くなった。
堪えられず、志穂は給湯室に背を向け、
まっすぐ廊下を歩いて離れた。
(……どうして?
ただ見ただけなのに……噂になるの、早すぎるよ……)
エレベーターの壁に寄りかかり、
志穂はそっと目をつむる。
(誰かに話したわけじゃないのに……
でも、聞こえたその通りだったら……)
胸の奥が、ひどく苦しくなった。
その日の昼休み。
志穂が資料を持って廊下を歩いていると、
ふいに声をかけられる。
「志穂さん、大丈夫?」
秘書課の先輩・小嶋が心配そうに覗き込んできた。
「え……? 何がですか?」
「だって……噂、聞いたでしょ?
副社長が昨夜、女性と会ってたって」
小嶋は、志穂を伺うような目で見つめる。
ドクン、と心臓が跳ねた。
「そ、そう……なんですか?」
「知らなかったの?
志穂さん、奥さまなのに……」
その言葉がいちばん刺さる。
志穂は苦笑いのような微笑みを浮かべた。
「お仕事の話だったんじゃないですか……?」
「ううん。
副社長、すっごく優しい声だったって聞いたよ。
相手の女性の肩にも触れてたって」
(肩……?)
昨日の影が脳裏をよぎる。
「ま、まさか……」
「志穂さんが心配で。
……副社長、最近よく誰かと電話してるみたいだし」
小嶋は、意地悪そうに言った。
(電話……誰と?)
胸が一瞬でざわついた。
息をするのも苦しい。
「……ありがとうございます。
少し、気をつけますね」
そう言って笑ったものの、
心の奥はひどく荒れていた。
夕方。
帰りの準備をしていると、
ふっと視界の端に悠真の姿が映った。
スーツのジャケットを肩に掛け、
スマートフォンで誰かと話している。
「……ああ、今夜伺う。
――わかってる。“彼女”のことは、俺が責任を持つ」
(“彼女”?)
胸が、一気に冷たくなる。
真理?
それとも……昨夜の、あの女性?
(もう……わからない)
息が震えた。
悠真がこちらに気づき、電話を切る。
「志穂。帰るなら一緒に――」
「っ……今日はひとりで帰ります」
遮るように言って、志穂は頭を下げた。
「すみません……どうしても」
「志穂?」
「行くね。」
逃げるように、
志穂はバックを抱えて立ち去った。
廊下を歩きながら、
胸の奥で言葉にならない痛みが広がっていく。
(噂が本当だったら……どうしよう)
(“守るよ”って言ってたのは――
誰を? 誰を守るの?)
夕暮れの光が滲んで、
涙と混じって世界がよく見えなかった。
目覚めた瞬間、志穂の胸にはまだ重たい痛みが残っていた。
(……昨日のこと、夢じゃなかった)
ガラス越しに見えた影。
“守るよ”と誰かに言う悠真。
折れたヒールを支えてくれた強い腕。
全部が胸を掴むように思い出される。
軽く頭を振り、志穂は気持ちを整えるように玄関の鏡をのぞいた。
(……泣いた跡、残ってないかな)
化粧で隠しても、気持ちは誤魔化せなかった。
会社に着き、秘書課のデスクへ向かう途中。
給湯室の方から、女性たちの声が聞こえてきた。
軽い雑談のような響き――
けれど、不思議と胸騒ぎがした。
「聞いた? 昨日の夜の話」
「え? なに?」
「副社長よ。役員フロアで女の人と話してたって。
遅い時間に、ふたりきりで」
「ほんと? しかもその女性、すっごく綺麗だったって聞いたわ」
志穂の足が止まった。
(……っ)
廊下の壁に手をつき、そっと耳を傾けてしまう。
「え、まさか……恋人とか?」
「どうだろうね。
でも、昔から副社長って真理さまのこと“特別視”してたって有名じゃない?」
「やっぱり……そうなんだ」
ザァッ――
頭の中で、砂をかき混ぜるような音がした。
(お姉ちゃん……特別?)
声が震えそうになる。
「志穂さん、かわいいけど……真理さまには敵わないよね」
「ね。もし本当に“真理さま”と副社長が話してたなら、
あの二人……ほんとにお似合いだと思う」
「じゃあ……政略結婚って、やっぱり“形だけ”なのかな?」
(いや……やめて)
一つひとつの言葉が、
胸の奥に鋭く刺さっていく。
指先が冷たくなり、呼吸すら浅くなった。
堪えられず、志穂は給湯室に背を向け、
まっすぐ廊下を歩いて離れた。
(……どうして?
ただ見ただけなのに……噂になるの、早すぎるよ……)
エレベーターの壁に寄りかかり、
志穂はそっと目をつむる。
(誰かに話したわけじゃないのに……
でも、聞こえたその通りだったら……)
胸の奥が、ひどく苦しくなった。
その日の昼休み。
志穂が資料を持って廊下を歩いていると、
ふいに声をかけられる。
「志穂さん、大丈夫?」
秘書課の先輩・小嶋が心配そうに覗き込んできた。
「え……? 何がですか?」
「だって……噂、聞いたでしょ?
副社長が昨夜、女性と会ってたって」
小嶋は、志穂を伺うような目で見つめる。
ドクン、と心臓が跳ねた。
「そ、そう……なんですか?」
「知らなかったの?
志穂さん、奥さまなのに……」
その言葉がいちばん刺さる。
志穂は苦笑いのような微笑みを浮かべた。
「お仕事の話だったんじゃないですか……?」
「ううん。
副社長、すっごく優しい声だったって聞いたよ。
相手の女性の肩にも触れてたって」
(肩……?)
昨日の影が脳裏をよぎる。
「ま、まさか……」
「志穂さんが心配で。
……副社長、最近よく誰かと電話してるみたいだし」
小嶋は、意地悪そうに言った。
(電話……誰と?)
胸が一瞬でざわついた。
息をするのも苦しい。
「……ありがとうございます。
少し、気をつけますね」
そう言って笑ったものの、
心の奥はひどく荒れていた。
夕方。
帰りの準備をしていると、
ふっと視界の端に悠真の姿が映った。
スーツのジャケットを肩に掛け、
スマートフォンで誰かと話している。
「……ああ、今夜伺う。
――わかってる。“彼女”のことは、俺が責任を持つ」
(“彼女”?)
胸が、一気に冷たくなる。
真理?
それとも……昨夜の、あの女性?
(もう……わからない)
息が震えた。
悠真がこちらに気づき、電話を切る。
「志穂。帰るなら一緒に――」
「っ……今日はひとりで帰ります」
遮るように言って、志穂は頭を下げた。
「すみません……どうしても」
「志穂?」
「行くね。」
逃げるように、
志穂はバックを抱えて立ち去った。
廊下を歩きながら、
胸の奥で言葉にならない痛みが広がっていく。
(噂が本当だったら……どうしよう)
(“守るよ”って言ってたのは――
誰を? 誰を守るの?)
夕暮れの光が滲んで、
涙と混じって世界がよく見えなかった。