王命婚 ~他の女性を一途に愛する旦那様との契約~
貴族女性にとって、結婚は必ずしも幸せなものではない。
中には望まぬ結婚を強いられ、涙を飲む女性も居る。
それは分かっている、伯爵家の長女に産まれたからには覚悟はしていた──はずなのに。
こちらを見下ろす夫の冷酷な瞳に、背筋が凍る思いだった。
「あの……」
神父様が、躊躇いがちに新郎に声を掛ける。
それもそのはず、指輪の交換が終わった後は、誓いの口付け──私もそう説明を受けていた。
だというのに、夫は口付けはおろか、私の顔を覆う厚いヴェールを上げようともしない。
「宣誓と指輪の交換は終わった。もう、これで良いだろう」
「は……?」
上擦った声は私の物だったか、それとも神父様が上げた声か。
新郎としての務めを果たさず、大股で礼拝堂を歩く夫。
その様を、誰もが呆然と見つめていた。
最前列に座る家族の顔が視界に映る。
ああ……お父様ったら何が起きたか分からずに、呆然と口を開けている。
お母様は真っ青な顔をして、今にも倒れてしまいそう。
弟のギルバートは、不機嫌な様子を隠しもせず、唇を噛みしめている。
……けれど、その隣に座る従兄のオスカーお兄様と比べたら、まだ落ち着いている方だ。
オスカーったら、視線だけでも相手を射殺してしまいそうだわ。
そんな風に見ないで、相手──今出ていった新郎は、この国の最高権力者である王弟殿下なのだから。
事の始まりは、一昨年、昨年と連続で発生した水害だった。
我がリックウッド伯爵領は、広大な農耕地を抱えている。
一度は復興しかけた領地が、二度目の水害に見舞われた。
いまだ一昨年の水害からも立ち直れておらず、これ以上橋や堤防を再建する資金など無い──窮地に陥った我が家に救いの手を差し伸べたのは、王家だった。
王弟アレクシス・ロス・ドラン殿下との結婚。
リックウッド伯爵家の長女である私リオノーラ・リックウッドにもたらされた、願ってもない縁談だ。
王弟殿下は当人の女性人気にもかかわらず、どんな女性との婚約も、首を縦に振ろうとはしない。
ドラン国王であるキャメロン・ロス・ドラン陛下は、独身を貫き続ける弟に長年頭を悩ませていた。
王命に従い、私がアレクシス殿下と結婚すれば、王家からの支援を受けて我がリックウッド伯爵領は再建を図ることが出来る。
万策尽きて行き詰まっていた我が家にとって願ってもない話だと、誰もが思っていた。
──あの契約書が届くまでは。
「なんだ、これは……」
王弟殿下からの書簡に、最初に目を通したのは、お父様だった。
封を開けるまではあんなに上機嫌だったのに、その変わりように、執務室に呼ばれた私とお母様は不安げに視線を見交わせた。
「お父様、何が書かれていたのですか?」
「──ふざけるな!!」
滅多に聞いたことのないお父様の怒声に、お母様と二人揃って、思わず肩を震わせる。
「私の娘を、一体何だと思っているのだ!!」
ぐしゃりと、お父様が書状を握りしめる。
……こんなに怒ったお父様を見るのは、初めてだ。
いつもは温厚で、人の好いお父様。
そんなお父様が声を荒らげるだなんて、王弟殿下──未来の夫からの書簡には、何が書かれていたのだろう。
「ちょっと失礼します」
いまだ興奮冷めやらぬ様子のお父様の掌から書面を奪い、お母様が執務机の上に広げる。
そこに書かれた文字を見て、お母様と二人、思わずあんぐりと口を開けてしまった。
「何……これ」
届いたのは、二通の契約書だった。
それぞれに署名、押印し、一通を送り返すようにと指示が添えられている。
問題なのは、その内容だ。
一つ、夫婦としての接触を一切求めないこと。
二つ、互いに不干渉のこと。
三つ、屋敷の内外を問わず、互いに妻として、夫としての振る舞いを強要しないこと。
それらの条項を認め、契約に同意したなら、リックウッド伯爵家への支援を行う──王弟殿下は、そう申し入れてきたのだ。
私と夫婦関係を築くつもりは、一切無い──契約書の文言からは、彼の意思がひしひしと感じられた。
「まぁ、なんてこと……」
「お母様!」
ふらりとよろけるお母様を、慌てて抱き留める。
支援は勿論のこと、私の結婚が決まって、あんなに喜んでいたというのに……弾んでいた心が、一通の書類で地獄の底まで叩き落とされてしまったのだ。
目眩がするのも、無理はない。
「あなた、どうしましょう……今からでも、このお話、お断りするべきかしら……」
「ちょっと待ってください!!」
お母様の言葉を、慌てて制する。
今後、我がリックウッド家はどう立ち回るべきか。
どのようにすれば、壊滅的な被害を受けた領地を回復させることが出来るか。
毎日毎晩検討を重ねて、もうどうにもならないと諦めかけた時に舞い込んだ王家の支援。
その手をここで振り払ってしまえば、我が家に明日は無い。
「別に無体を働かれる訳ではないのでしょう。ただ、お飾りの妻で居ろというだけの話で……」
嫁いだ後、どんな風に扱われるか……期待はしていないけれどね。
「そんなこと、分からないわ。もし貴女が不幸な目に遭いでもしたら……」
「もし酷い扱いを受けるようなら、戻ってきますよ。互いに不干渉ってことは、私が里帰りしても、文句は言わないでしょう」
そう。
妻としての振る舞いを求められないならば、こちらも好きにすれば良い。
そう思って臨んだ此度の婚姻だったけれど……まさか、夫が結婚式の決まり事さえ守る気が無いとは思わなかった。
中には望まぬ結婚を強いられ、涙を飲む女性も居る。
それは分かっている、伯爵家の長女に産まれたからには覚悟はしていた──はずなのに。
こちらを見下ろす夫の冷酷な瞳に、背筋が凍る思いだった。
「あの……」
神父様が、躊躇いがちに新郎に声を掛ける。
それもそのはず、指輪の交換が終わった後は、誓いの口付け──私もそう説明を受けていた。
だというのに、夫は口付けはおろか、私の顔を覆う厚いヴェールを上げようともしない。
「宣誓と指輪の交換は終わった。もう、これで良いだろう」
「は……?」
上擦った声は私の物だったか、それとも神父様が上げた声か。
新郎としての務めを果たさず、大股で礼拝堂を歩く夫。
その様を、誰もが呆然と見つめていた。
最前列に座る家族の顔が視界に映る。
ああ……お父様ったら何が起きたか分からずに、呆然と口を開けている。
お母様は真っ青な顔をして、今にも倒れてしまいそう。
弟のギルバートは、不機嫌な様子を隠しもせず、唇を噛みしめている。
……けれど、その隣に座る従兄のオスカーお兄様と比べたら、まだ落ち着いている方だ。
オスカーったら、視線だけでも相手を射殺してしまいそうだわ。
そんな風に見ないで、相手──今出ていった新郎は、この国の最高権力者である王弟殿下なのだから。
事の始まりは、一昨年、昨年と連続で発生した水害だった。
我がリックウッド伯爵領は、広大な農耕地を抱えている。
一度は復興しかけた領地が、二度目の水害に見舞われた。
いまだ一昨年の水害からも立ち直れておらず、これ以上橋や堤防を再建する資金など無い──窮地に陥った我が家に救いの手を差し伸べたのは、王家だった。
王弟アレクシス・ロス・ドラン殿下との結婚。
リックウッド伯爵家の長女である私リオノーラ・リックウッドにもたらされた、願ってもない縁談だ。
王弟殿下は当人の女性人気にもかかわらず、どんな女性との婚約も、首を縦に振ろうとはしない。
ドラン国王であるキャメロン・ロス・ドラン陛下は、独身を貫き続ける弟に長年頭を悩ませていた。
王命に従い、私がアレクシス殿下と結婚すれば、王家からの支援を受けて我がリックウッド伯爵領は再建を図ることが出来る。
万策尽きて行き詰まっていた我が家にとって願ってもない話だと、誰もが思っていた。
──あの契約書が届くまでは。
「なんだ、これは……」
王弟殿下からの書簡に、最初に目を通したのは、お父様だった。
封を開けるまではあんなに上機嫌だったのに、その変わりように、執務室に呼ばれた私とお母様は不安げに視線を見交わせた。
「お父様、何が書かれていたのですか?」
「──ふざけるな!!」
滅多に聞いたことのないお父様の怒声に、お母様と二人揃って、思わず肩を震わせる。
「私の娘を、一体何だと思っているのだ!!」
ぐしゃりと、お父様が書状を握りしめる。
……こんなに怒ったお父様を見るのは、初めてだ。
いつもは温厚で、人の好いお父様。
そんなお父様が声を荒らげるだなんて、王弟殿下──未来の夫からの書簡には、何が書かれていたのだろう。
「ちょっと失礼します」
いまだ興奮冷めやらぬ様子のお父様の掌から書面を奪い、お母様が執務机の上に広げる。
そこに書かれた文字を見て、お母様と二人、思わずあんぐりと口を開けてしまった。
「何……これ」
届いたのは、二通の契約書だった。
それぞれに署名、押印し、一通を送り返すようにと指示が添えられている。
問題なのは、その内容だ。
一つ、夫婦としての接触を一切求めないこと。
二つ、互いに不干渉のこと。
三つ、屋敷の内外を問わず、互いに妻として、夫としての振る舞いを強要しないこと。
それらの条項を認め、契約に同意したなら、リックウッド伯爵家への支援を行う──王弟殿下は、そう申し入れてきたのだ。
私と夫婦関係を築くつもりは、一切無い──契約書の文言からは、彼の意思がひしひしと感じられた。
「まぁ、なんてこと……」
「お母様!」
ふらりとよろけるお母様を、慌てて抱き留める。
支援は勿論のこと、私の結婚が決まって、あんなに喜んでいたというのに……弾んでいた心が、一通の書類で地獄の底まで叩き落とされてしまったのだ。
目眩がするのも、無理はない。
「あなた、どうしましょう……今からでも、このお話、お断りするべきかしら……」
「ちょっと待ってください!!」
お母様の言葉を、慌てて制する。
今後、我がリックウッド家はどう立ち回るべきか。
どのようにすれば、壊滅的な被害を受けた領地を回復させることが出来るか。
毎日毎晩検討を重ねて、もうどうにもならないと諦めかけた時に舞い込んだ王家の支援。
その手をここで振り払ってしまえば、我が家に明日は無い。
「別に無体を働かれる訳ではないのでしょう。ただ、お飾りの妻で居ろというだけの話で……」
嫁いだ後、どんな風に扱われるか……期待はしていないけれどね。
「そんなこと、分からないわ。もし貴女が不幸な目に遭いでもしたら……」
「もし酷い扱いを受けるようなら、戻ってきますよ。互いに不干渉ってことは、私が里帰りしても、文句は言わないでしょう」
そう。
妻としての振る舞いを求められないならば、こちらも好きにすれば良い。
そう思って臨んだ此度の婚姻だったけれど……まさか、夫が結婚式の決まり事さえ守る気が無いとは思わなかった。
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