追放された薬師ですが、冷酷侯爵に溺愛されて辺境でスローライフ始めます

第1章 屈辱の日々

夜明け前の薬草調合室は、静寂に包まれていた。
リディア・アーシェンフェルトは、長い木製の作業台の前に座り、乳鉢で薬草をすり潰していた。窓の外はまだ暗く、蝋燭の灯りだけが彼女の手元を照らしている。
すり鉢の中で、白い花弁が粉末になっていく。リディアは手を止め、小さな革表紙のノートを開いた。そこには、この世界の文字ではない、奇妙な記号が並んでいる。
C₁₇H₁₉NO₃——。
前世で学んだ化学式。鎮痛作用を持つアルカロイドの分子構造だ。リディアはこの世界の薬草と、前世の知識を照合し、ノートに書き込んでいく。この白い花弁には、似た構造の成分が含まれているはずだ。魔力など使わずとも、適切な配合で痛みは和らぐ。
リディアは再び乳鉢を手に取り、作業を続けた。
前世では、製薬会社の研究員だった。化学式と向き合い、データを解析し、薬を開発する日々。だが、告発した薬害事件で孤立し、誰にも信じてもらえなかった。そして今世でも——。
足音が聞こえた。
リディアは顔を上げる。調合室の扉が開き、優雅な衣擦れの音と共に、一人の女性が入ってきた。
セレナ・ヴィオレット。
金髪が蝋燭の光を受けて輝き、碧眼が冷たく笑っている。宮廷薬師長である彼女は、リディアを見下ろすように立ち止まった。
「あら、リディア。またこんな早朝から? ご苦労様ね」
セレナの声は甘く、だが棘がある。リディアは無言で頭を下げた。
「それ、何を作っているの?」
セレナが作業台に近づき、乳鉢の中身を覗き込む。リディアは咄嗟にノートを閉じた。
「鎮痛薬です。セレナ様」
「まあ。また失敗作?」
セレナは鼻で笑った。
「あなたの薬は、いつも魔力が足りないのよ。だから効かないの。わかる?」
リディアは唇を噛んだ。魔力が足りない——それは、この世界の薬師たちが常にリディアに浴びせる言葉だった。だが、リディアは知っている。魔力に頼らずとも、化学的な配合で薬は作れる。前世で、何度も証明してきた。
「いえ、この配合なら——」
「配合?」
セレナは嘲笑を深めた。
「あなた、まだそんなことを言っているの? 薬学は魔力が全てなのよ。それが理解できないから、あなたはいつまでも見習いなの」
セレナは作業台の上にあった、リディアが調合した鎮痛薬の小瓶を手に取った。淡い緑色の液体が、瓶の中で揺れている。
「これ、誰に使うつもり?」
「下級使用人の方が、腰痛で困っていると聞いて……」
「効果不明の薬を、勝手に配るつもりだったの?」
セレナの声が冷たくなった。リディアは息を呑む。
「いえ、そんなつもりでは——」
「廃棄しなさい」
セレナは小瓶を作業台に叩きつけた。ガラスが割れ、緑色の液体が木の板に染み込んでいく。リディアは思わず立ち上がった。
「セレナ様!」
「何? 文句でもあるの?」
セレナは冷ややかに微笑んだ。そして、自分の懐から別の小瓶を取り出す。中には、鮮やかな赤い液体が入っていた。
「これが正解よ。魔力を高濃度で注入した、本物の鎮痛薬。これなら、どんな痛みも一瞬で消える」
リディアは、その小瓶を見つめた。赤い液体が、不自然なほど輝いている。前世の知識が警告を発する。魔力過多——それは、依存性を生む。長期使用すれば、身体が薬なしでは機能しなくなる。
「でも、それは……」
「それは、何?」
セレナの目が細まった。リディアは言葉を飲み込んだ。言っても、無駄だ。誰も信じてくれない。
調合室の扉が再び開き、数人の薬師見習いたちが入ってきた。彼らはセレナの姿を見ると、慌てて頭を下げる。
「セレナ様、おはようございます」
「おはよう。ちょうどいいわ。みんなにも見せてあげましょう」
セレナは、リディアが割れた小瓶の前で立ち尽くしている姿を指差した。
「リディアは、また魔力のない薬を作ろうとしていたの。危ないでしょう?」
薬師見習いたちは、リディアを見た。その目には、軽蔑と哀れみが混じっている。
「リディア様、やはり魔力が足りないのでは……」
「セレナ様の仰る通りですよ。薬学の基本は魔力です」
リディアは、彼らの視線に耐えた。拳を握り、爪が掌に食い込む。
「わかったでしょう? リディア」
セレナは満足そうに微笑み、踵を返した。
「次からは、私の指示に従いなさい。勝手なことはしないように」
衣擦れの音と共に、セレナは調合室を出て行った。薬師見習いたちも、ひそひそと囁きながら彼女の後を追う。
リディアは、一人残された。
割れた小瓶と、染み込んだ緑色の液体。前世で学んだ薬学が、ここでは異端扱いされる。化学式も、データも、誰も理解してくれない。
リディアは、ノートをそっと開いた。そこに書かれた分子式が、蝋燭の光で揺れている。
いつか、証明してみせる。
リディアは、震える手でノートを閉じた。
午後の陽射しが、王宮の中庭に降り注いでいた。
リディアは、白い石造りのベンチに座り、手元の懐中時計を見た。約束の時間を5分過ぎている。
月例面会——第3王子アルヴィン・エルフィードとの、形式的な義務。婚約者として、月に一度は顔を合わせなければならない。だが、それ以上でも以下でもない。
足音が聞こえた。
リディアは顔を上げる。金髪の青年が、書類の束を抱えて歩いてくる。整った顔立ちだが、表情は退屈そうだ。
「アルヴィン様」
リディアは立ち上がり、頭を下げた。
「ああ、リディア」
アルヴィンは、リディアを一瞥しただけで、ベンチの反対側に腰を下ろした。そして、書類を膝の上に広げ、羽根ペンを取り出す。
「今日は5分で終わらせたい。忙しいんだ」
リディアは、再び座った。アルヴィンは、書類に目を落としたまま、リディアを見ようともしない。
「……はい」
リディアは、小さく答えた。胸が締め付けられる。いつものことだ。アルヴィンは、リディアに興味がない。婚約は、ただの政略結婚。第3王子という、王位継承順位の低い彼にとって、リディアは「余り物」の婚約者でしかなかった。
「何か、話すことは?」
アルヴィンは、書類に何かを書き込みながら、機械的に尋ねた。
リディアは、迷った。だが、意を決して口を開く。
「あの……薬学研究の、進捗を報告したいのですが」
アルヴィンの手が止まった。彼は顔を上げ、初めてリディアを見た。だが、その目には何の感情もない。
「薬学?」
「はい。私、最近新しい調合方法を——」
「興味ない」
アルヴィンは、即座に遮った。
「薬学のことは、セレナ様に任せている。君が何をしようと、俺には関係ない」
リディアは、息を呑んだ。アルヴィンは、再び書類に目を戻す。
「セレナ様は優秀だ。宮廷薬師長として、王宮の医療を一手に担っている。君が余計なことをする必要はない」
余計なこと。
その言葉が、リディアの胸に突き刺さった。
「でも、私も婚約者として、少しでもお役に——」
「リディア」
アルヴィンは、ため息をついた。
「君は、婚約者としての最低限の義務を果たしていればいい。それ以上は求めていない。わかるだろう?」
リディアは、俯いた。拳を握る。爪が、掌に食い込む。
「……はい」
「なら、今日はこれで終わりだ」
アルヴィンは立ち上がり、書類を抱え直した。リディアは、彼の背中を見上げる。
「あの……アルヴィン様」
「何だ?」
「今度、お時間がある時に、もう少しお話を——」
「忙しい。また来月」
アルヴィンは、そう言い残し、さっさと歩き出した。リディアは、彼の背中が遠ざかるのを、ただ見つめていた。
中庭の噴水が、静かに水音を立てている。
リディアは、ベンチに座ったまま、手元の懐中時計を見た。面会時間は、3分だった。
風が吹いた。
リディアは、顔を上げる。中庭の向こう、薔薇園の方から、笑い声が聞こえてきた。
女性の、鈴を転がすような笑い声。
そして、男性の、穏やかな笑い声。
リディアは、立ち上がった。薔薇園の方へ、数歩歩く。
そこには、セレナとアルヴィンがいた。
セレナは、赤い薔薇を手に持ち、アルヴィンに何かを話している。アルヴィンは、書類を脇に置き、セレナの話に耳を傾けていた。彼の顔には、リディアが一度も見たことのない、穏やかな笑みが浮かんでいる。
セレナが、何か冗談を言ったのだろう。アルヴィンは声を上げて笑い、セレナも優雅に微笑んだ。二人は、まるで恋人のように、親密だった。
リディアは、その場に立ち尽くした。
拳を、握る。
爪が、掌に食い込む。
痛みが、走る。
だが、それ以上に、胸が痛かった。
この婚約は、政略の余り物。
アルヴィンは、リディアに興味がない。彼の心は、セレナにある。
そして、リディアには、居場所がない。
王宮にも、アルヴィンの隣にも、どこにも。
リディアは、踵を返した。薔薇園から離れ、中庭の石畳を歩く。
噴水の水音が、遠くで聞こえる。
リディアは、俯いたまま、王宮の廊下へと戻っていった。
誰も、彼女を見送る者はいなかった。
夜。
リディアの部屋は、王宮の端、使用人たちが住む棟の一角にあった。
狭い。
壁は剥き出しの石造り、窓は小さく、家具は質素な木製のベッドと机、古びた椅子が一脚あるだけだ。貴族の令嬢の部屋とは思えない。だが、リディアには、これで十分だった。誰にも邪魔されない、一人きりの場所。
リディアは、ベッドの端に腰を下ろした。蝋燭を灯し、机の上に置く。
部屋は、静寂に包まれていた。
リディアは、両手で顔を覆った。
今日も、何も変わらなかった。
セレナに嘲笑され、アルヴィンに無視され、誰にも必要とされない。
胸が、締め付けられる。
息が、苦しい。
リディアは、手を下ろした。そして、机の引き出しを開け、革表紙のノートを取り出す。
前世の記憶が、蘇った。
白い研究室。
無機質な蛍光灯の光。
リディアは、白衣を着て、顕微鏡を覗き込んでいた。データが、モニターに映し出される。薬害——副作用で苦しむ患者たちのデータ。製薬会社が隠蔽した、真実。
「これを、公表しなければ……」
リディアは、上司に報告書を提出した。
だが、上司は、報告書を机に叩きつけた。
「君の研究は、会社の利益を損なう」
「でも、患者さんたちが——」
「黙れ。君は、会社の方針に従え」
リディアは、それでも諦めなかった。内部告発を決意し、外部の機関に資料を送った。
だが、誰も信じてくれなかった。
「証拠不十分」
「君の主張は、信憑性に欠ける」
リディアは、孤立した。同僚たちは彼女を避け、上司は彼女を左遷した。
そして、リディアは、一人きりになった。
リディアは、目を開けた。
蝋燭の炎が、揺れている。
前世でも、今世でも、同じだ。
誰も、信じてくれない。
リディアは、立ち上がり、壁にかけられた小さな鏡の前に立った。
鏡に映る自分を、見つめる。
栗色の髪は、地味で艶がない。灰色の瞳は、疲れている。頬はこけ、唇は血の気がない。華奢な体は、貴族の令嬢というより、使用人のようだ。
リディアは、鏡に映る自分に、囁いた。
「この世界でも、前世でも、私は透明人間」
誰にも見られない。
誰にも必要とされない。
ただ、存在しているだけ。
リディアは、鏡から目を逸らした。
机に戻り、ノートを開く。
そこには、前世の化学式と、この世界の薬草の記録が、びっしりと書き込まれていた。リディアの、唯一の宝物。
リディアは、羽根ペンを手に取った。
インクを浸し、ノートに書き込む。
「アルカロイド抽出法、再検討。魔力なしでの鎮痛効果、検証必要」
ペン先が、紙の上を滑る。
リディアは、書き続けた。
誰も信じてくれなくても、誰にも必要とされなくても、リディアには、これがある。薬学の知識。人を救いたいという、願い。
リディアは、ペンを置いた。
そして、ノートを見つめながら、小さく呟いた。
「いつか、人を救える日が来る」
それが、リディアの唯一の希望だった。
前世で果たせなかった、使命。
この世界で、必ず果たす。
リディアは、ノートを閉じた。
蝋燭の炎が、揺れている。
リディアは、窓の方を見た。
小さな窓の外に、満月が浮かんでいた。
冷たく、白い光。
満月は、静かに輝いている。
だが、その光は、どこか不穏だった。
まるで、何かを予兆しているかのように。
リディアは、窓に近づいた。ガラス越しに、月を見上げる。
月の光が、リディアの顔を照らした。
リディアは、何かを感じた。
胸の奥に、冷たいものが走る。
嫌な予感。
リディアは、窓から離れた。
蝋燭を吹き消し、ベッドに横になる。
薄い毛布を、体にかける。
暗闇の中、リディアは目を閉じた。
だが、眠れなかった。
満月の光が、窓から差し込んでいる。
リディアは、その光を見つめながら、ただ横たわっていた。
何かが、近づいている。
リディアには、わからなかった。
それが何なのか。
ただ、胸の奥の、冷たいものが、消えなかった。
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