一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
エピローグ
それからの日々は、本当に言葉通り、矢のように過ぎていった。
修士論文の執筆と、データの最終チェック。
教授たちからの厳しい突っ込みを想定した、口頭諮問の予想質問リストの作成。
慣れない検体検査の勉強。
それから、二人で住むための新居の相談。
「保育園に近いほうがいい」「いや、病院からの呼び出しに間に合う距離だ」なんて言い合いながらの物件探しは、目が回るほど忙しかったけれど──不思議と、疲れは感じなかった。
隣に、同じ未来を見ている人がいる。それだけで、こんなにも足取りは軽くなるのだ。
──そして。
色々なことが一段落し、街路樹の葉が落ちて冬に入る手前。
私たちは揃って、御崎先生のデスクを訪ねた。
「……結婚、することになりました」
私が告げると、報告を聞いた彼は、リズミカルに叩いていたキーボードの手をピタリと止め、少しだけ呆れたように息を吐いた。
「……わざわざ俺に直接報告してくれなくてもいいのに」
彼は視線をモニターに戻し、またカカタッと打ち込みながら、ぶっきらぼうに言った。
「どうせ、噂で回ってくるだろ。あの坂上がデキ婚だなんだってさ」
その言い草に、隣の栄人さんが「人聞きが悪いな」と苦笑する。
でも、その瞳は怒っていなかった。
私たちは知っている。このひねくれた言葉の裏に、彼なりの安堵があることを。
「……先生には、色々と助けていただきましたから」
私は一歩前に出て、真剣な眼差しで彼を見た。
「先生にあの時妊娠指摘されなければ、私ずっと気づかずに実験続けて、有機溶剤とかも使って……そうしたら、お腹の子も無事じゃなかったと思います」
あの日。私が倒れた日。
あれからものの数週間後には、キシレンやホルマリンといった胎児に悪影響を及ぼす有機溶剤をふんだんに使用する、病理染色も含む工程を予定していたことを思い出して、私は背筋が凍る思いをした。
御崎先生の手が止まる。
「……それから……嬉しかったです。半分冗談だと思ってますけど、研究室、誘っていただいて」
彼は椅子をくるりと回してこちらを向くと、いつもの冷静な、けれど少しだけ優しい目をした。
「……割と本気だったんだけどな。優秀な助手を逃して残念だよ。
ま、元の鞘に納まるならそれが一番だな」
彼はデスクの引き出しから、スティックタイプのカフェオレを二本取り出し、放り投げた。
「祝いだ。……カフェインレスだから、妊婦でも飲めるだろ」
「……っ、ありがとうございます」
不器用すぎる祝儀に、胸が熱くなる。
栄人さんが、それを受け取ってにっと笑った。
「ありがとな、御崎。……それと、引っ越すんだ。片付いたら遊びに来いよ」
「あ? 俺がか?」
「ああ。……彼女も一緒でもいい」
栄人さんが補足すると、御崎先生は目を丸くし──それから、観念したように笑った。
「……ありがとう。彼女に、提案してみるよ」
窓の外には、冬の気配を含んだ風が吹いている。
けれど、この部屋の中は、春のように温かかった。