半年限定の花嫁だけど、本気で求められています

第11話 離れたくない心、近づく別れ

舞の言葉が胸に突き刺さった翌日から――。
 紗菜は、怜司と“少し距離を取ること”を覚えた。

 無理やりではなく、そっと。
 触れられなくても動揺しないように。
 優しくされても期待しないように。

 (だって……半年で終わるんだから)
 (私が一方的に好きになったら……帰る場所がなくなる)

 そんな考えが、紗菜の胸を占めていた。

 怜司は相変わらず忙しく、夜遅くに帰ってくる。
 いつものように書斎へ直行し、すぐ仕事に戻る。

 だけど――。
 その日、怜司は寝室に戻ってくると、紗菜がまだリビングにいることに気づいた。

 「……紗菜。今日は早く寝ろと言ったはずだ」

 「……すみません。もう寝ます」

 言葉は普通なのに、声が少し震えていた。
 怜司の目が細くなる。

 「お前、何かあったのか?」

 「いいえ。何も……」

 怜司が近づいてくる。
 紗菜は無意識に一歩後ろへ下がってしまった。

 ――その一歩が、怜司の胸に深く刺さった。

 「……なぜ下がる」

 問いかけの声は低く、戸惑いが混じっていた。
 紗菜は慌てて首を振る。

 「あっ、違うんです……! ただ、疲れていて……」

 「それは俺も同じだ」

 怜司は紗菜の手首を取ろうとしたが、紗菜はそっと引いてしまう。

 勇気がなくて。
 触れられたら、涙が溢れそうで。

 怜司は静かに紗菜を見つめた。
 その視線は言葉より雄弁で、胸が締めつけられる。

 「……最近、俺を避けている」

 「そ、そんなこと……」

 怜司が一歩踏み出す。
 紗菜は一歩後ろへ下がる。

 「避けた」

 怜司の声が低く落ちる。
 怒っているというより――傷ついている声。

 「理由を言え」

 紗菜の胸がズキンと痛む。
 言えるはずがない。

 言えば困らせる。
 答えが返ってこなくて傷つくのは自分だ。

 「……何もないです。本当に」

 怜司の表情が少しだけ曇る。

 「紗菜。
  俺が……お前に何かしたか?」

 「違います……怜司さんは、いつも優しくしてくれます……」

 「なら、なぜ……?」

 言葉が続かない。
 紗菜の心があふれそうで、それ以上口を開けない。

 怜司はしばらく黙っていた。
 そして、低く息を吐いた。

 「……契約だからか」

 紗菜の肩がビクリと震えた。

 怜司はゆっくり紗菜へ近づく。
 逃げ場を塞がれ、壁に背を押し当てられる。

 「契約だから、俺に近づくなと言うのか……?」

 「そんな……違います……っ」

 「じゃあ言え。
  “俺に近づかない理由”を」

 胸が痛い。
 苦しい。

 紗菜は必死で目をそらし、強い声で言った。

 「……私が……怜司さんに、依存しちゃいそうだからです」

 怜司の眉が動く。

 「依存……?」

 「毎日優しくされて……触れられて……
  それが全部、契約の中の優しさだったら……私……耐えられない……」

 声が震えていた。
 怜司は目を見開き、紗菜に触れようとして――一瞬で手を引いた。

 (触れたら……壊れる)
 そう言っているみたいだった。

 怜司は喉を詰まらせるように声を押し出す。

 「……紗菜。
  俺が優しくするのは、契約だからじゃない」

 「でも……残り……1ヶ月なんですよね……?」

 その数字を口にした瞬間、身体が震えた。
 怜司の瞳がかすかに揺れる。

 「……ああ。あと1ヶ月だ」

 その“事実”が、二人を切り裂くように重く響いた。

 紗菜は唇を噛んで微笑む。
 「なら……そんなに近づいても……意味ないですよ……ね?」

 怜司が顔を歪めた。
 珍しく、感情を隠せていなかった。

 「紗菜……」

 「半年が終わったら、私は……怜司さんの婚約者じゃなくなるんです。
  だから、これ以上……優しくしないでください……」

 紗菜の声は泣き声に近かった。
 怜司は一歩踏み出し、紗菜の腕を掴む。

 「……やめろ」

 「怜司さん……!」

 「こんなこと、言うな……」
 怜司は苦しそうに紗菜を引き寄せた。

 紗菜は胸に押しつけられ、逃げられなくなる。

 「離れたいなんて……思わせる俺が悪いのか……?」

 怜司の声が震えている。
 その震えが紗菜の胸をまた締めつける。

 気づいてしまった。
 怜司もまた、何かを押し殺している。

 紗菜は弱い声で言った。

「……だって……怖いんです……
終わりが来るのが……」

 怜司の腕が強く締まる。

 「……紗菜」

 優しい声。
 だけど紗菜は、怜司の胸の中で泣くしかなかった。

 ふたりの距離は、たった一歩。
 触れればこんなに温かいのに、
 心は逆方向へすれ違っていく。

 契約の期限――残り1ヶ月。
 恋心だけが、終わらせ方を知らないまま膨らんでいく。
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