半年限定の花嫁だけど、本気で求められています

第12話 二人の本音、重なる影

怜司に抱きしめられた夜から――紗菜の胸はずっと重かった。
 あの腕の温かさも、声の震えも、忘れようとするほど思い出してしまう。

 (怜司さん……“こんなこと言うな”って……)

 まるで、自分の言葉が怜司の心を傷つけたような口ぶりだった。
 けれどそれが何を意味しているのか、紗菜にはわからない。

 (もし……怜司さんも少しでも、私を特別に思ってくれてたら……)

 期待してしまうから、苦しい。
 恋をすると、こんなにも息が苦しくなるのかと知る。

 けれど、そんな紗菜の心を知らないまま――怜司は仕事に追われた。

 顔を合わせても、言葉は少なく、手が触れそうになると怜司はそっと引く。

 (避けられてる……?)

 そう思うたび、胸がひりついた。

 実は、怜司には怜司の事情があった。
 紗菜が距離を置こうとしたあの夜――怜司の胸にも、小さな不安が生まれていた。

 (……紗菜が、離れたがっている?)
 (俺が……何かしたのか?)

 仕事をこなしながらも、紗菜の表情が頭から離れなかった。

 優しくすれば泣かせてしまい、
 触れれば怯えさせてしまう気がして――怖かった。

 (……どうすればいい……?)

 怜司は初めて、答えの出ない迷いに足を取られていた。



 数日後。
 紗菜が一人で庭に出ていると、舞が近づいてきた。

 「紗菜さん。最近、怜司さん……あなたに冷たくしてない?」

 出だしから心をえぐる言葉だった。
 紗菜は目を見開いた。

 「そ、そんな……怜司さんは忙しいだけで……」

 「違うと思うわ」

 舞は静かに微笑んだ。
 その笑みは綺麗で、どこか冷たい。

 「紗菜さんが知らないかもしれないから、言っておくわね。
  怜司さん……“あれ”を受けるつもりよ」

 「……あれ?」

 「正式婚約の申し出よ」

 紗菜の心臓が止まりそうになった。

 (正式婚約……?)

 舞は続ける。
 「もちろん、相手はあなたじゃないわ」

 (あ……そう、だよね……)

 なんとなくわかっていたはずの言葉なのに、
 舞に言われると胸がズキッと痛む。

 舞はさらに残酷な言葉を落とした。

 「怜司さん、最近あなたを避けてるでしょう?
  本当はね、“あなたが気持ちを持たないように”距離を置いているのよ」

 「えっ……?」

 「あなたに依存させないため。
  半年で終わる関係なんだから、情なんて持たないほうがいい。
  ……怜司さん、そう考えてるみたい」

 (…………っ!)

 息ができない。
 胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

 (怜司さんが……私に、情を持たないように……?)
 (だから……触れなかったの……?)
 (優しすぎるのに……距離を置いたの……?)

 紗菜は微笑みながら必死に涙をこらえた。

 「……そうですよね。
  怜司さんは……優しいから……」

 舞は満足げに微笑んだ。

 「わかってもらえてよかった」

 そのまま去っていく舞の背中が揺れた。

 紗菜は、もう立っていられなかった。
 庭のベンチに座り、震える手を胸に当てた。

 (あれは……優しさじゃなくて……
  “終わりを考えた距離”だったんだ……)

 頬に温かいものがこぼれる。

 (……私だけが、勘違いして……)

 涙が落ちていく。

 (好きになって……迷惑だったんだ……)

 震える手がスカートをぎゅっと握る。

 (……こんなに好きなのに……)



 その日の夕方。
 紗菜は自室のクローゼットを開けた。
 荷物をまとめるための大きなスーツケースを取り出す。

 (期限まで、あと3週間。
  最後までいたら、もっと苦しくなるだけ……)

 静かな決意だった。

 そっと洋服を畳み、書類をまとめ、アクセサリーを箱へ入れていく。
 一つ一つ詰めるたびに、胸が痛んだ。

 (怜司さんに何も言わずに出るなんて……失礼だよね……)
 (でも、会ったら……泣いてしまう……)

 手が止まる。
 そのとき。

 ――ガチャッ!

 扉の向こうから驚いた声が響いた。

 「……紗菜? 何をしてる」

 怜司だった。

 紗菜が振り返ると、怜司の視線はスーツケースに落ちた。
 一瞬で表情が固まり、歩み寄ってきた。

 「出ていくつもりか?」

 声は低く、震えていた。

 紗菜は唇を噛んで、ゆっくりとうなずく。

 「……ごめんなさい。
  契約の期限、まだ残ってるけど……もう……迷惑はかけたくないから……」

 怜司の目が大きく揺れた。

 「迷惑……? 誰がそんなことを――」

 舞が言った、とは言えない。
 紗菜は俯いたまま続けた。

 「怜司さんは……私に情が移らないように……距離を置いたんですよね?
  半年で終わる関係だから……って……」

 怜司の顔が一瞬で強張った。

 「誰から聞いた」

 「……」

 「答えろ、紗菜」

 怒りに似た熱が声に宿っている。
 紗菜は震える声で言った。

 「舞さんが……言ってました……」

 怜司は深く息を吸い、握った拳を震わせた。

 「……違う」

 静かだけれど、揺るぎない声。

 「距離を置いたのは……
  “お前をこれ以上泣かせたくなかった”からだ」

 紗菜は思わず顔を上げた。
 怜司は近づき、腕を伸ばし――紗菜を強く抱きしめた。

 「……いなくなるなんて……考えるな」

 低い声が耳元に落ちる。

 「俺は……お前に情を持たないなんて……できるわけがない」

 紗菜はその言葉に、耐えきれず涙をこぼした。

 「……じゃあ……怜司さんは……どうしたいんですか……?」

 怜司は紗菜の髪に額を押し当て、苦しそうに囁いた。

 「……俺も……どうしたらいいかわからなくなってる」

 紗菜の胸がぎゅっと締めつけられる。
 怜司の声が震えていたのは、初めてだった。

 夜の部屋には、二人の呼吸だけが重なっていた。

 距離を取ろうとしていた二人が、
 今はこんなにも近くで、
 離れられなくなっていた。
< 12 / 16 >

この作品をシェア

pagetop