半年限定の花嫁だけど、本気で求められています

第13話 消えた花嫁、追いかける影

 怜司の腕に強く抱きしめられたまま、
 紗菜はしばらく動けなかった。

 怜司の声は確かに震えていた。
 「いなくなるなんて考えるな」
 そのひと言だけで胸が張り裂けそうになる。

 だけど、分かってしまった。
 怜司は迷っている。
 紗菜の気持ちに応えるのではなく、“どう接するべきか”で迷っているだけだ。

 (……本当に、私を必要としているわけじゃない)
 (怜司さんは優しいから……抱きしめてくれただけ)

 それを理解した瞬間、胸の奥に小さな亀裂が走った。

 怜司の腕の中は、あまりに温かくて。
 だからこそ、終わりが怖くなる。

 翌朝。
 怜司は早朝から会議のため、屋敷を出た。

 紗菜は窓辺に座り、怜司の車が門の外へ消えるのを見送った。

 (……やっぱり、私……出ていこう)

 昨夜怜司が「いなくなるな」と言ってくれたのは、優しさだ。
 恋でも、愛でもない。

 (これ以上期待したら……壊れてしまう)

 紗菜は小さく息を吸い、クローゼットに手を伸ばした。

 スーツケースを開く音。
 服を畳む音。
 震える指。

 ――それでも紗菜は荷物をまとめ続けた。

 そこへ、舞が屋敷を訪れた。
 不意に紗菜の部屋の扉が開く。

 「あら……準備をしているのね」

 紗菜は振り返れなかった。

 「……舞さん。昨夜のこと、怜司さんに言いましたか?」

 「言ったわよ。“紗菜さんが自分から身を引いたほうがいい”って」

 (…………っ)

 舞は穏やかな声で続けた。

 「怜司さん、“そのほうが互いのためだ”って言っていたわ」

 紗菜の手が止まる。

 (怜司さんが……?)

 舞は紗菜の心が折れる瞬間を見届けるように、言葉を落とした。

 「あなたの気持ちに応えるつもりはないって。
  優しいから拒絶はしないけど――
  本気になるのは、あなたにとって良くないって」

 “怜司さん”と“良くない”が胸の奥でひどくぶつかり合う。

 (……そうだよね)
 (優しいだけ……だったんだ)

 舞は最後に微笑んだ。

 「あなたが出ていくのは正しい選択よ、紗菜さん」

 その言葉に、紗菜はもう何も返せなかった。

 舞が去ったあと――紗菜は静かに部屋の鍵を閉めて泣いた。

 怜司と過ごした部屋。
 同じ庭を見た窓。
 笑ってくれた顔。
 呼んでくれた名前。
 触れた温もり。

 ひとつひとつが胸に刺さる。

 (……でも、このまま残っていたら……
  もっと傷つくことになる)

 涙を袖で拭いながら、紗菜は最後の荷物をスーツケースにしまった。

 そして――
 机の上に、白い封筒を置いた。

 怜司への手紙。
 最後の気持ちを、たった数行だけ書き残したもの。

 「……ありがとうございました……怜司さん……」

 声に出すと、涙がまた溢れてくる。

 紗菜はスーツケースを引き、屋敷の裏口に向かった。
 正門を使えば誰かに見つかる。
 裏口からなら、静かに消えられる。

 庭を横切ったとき、
 桜の木の下で怜司と見た朝の景色を思い出した。

 「……怜司さんの隣に……いたかった……」

 風に消されていく小さな声。
 紗菜の足取りだけが静かに遠ざかっていく。

 一方その頃――怜司は会議室で胸騒ぎを覚えていた。

 (……紗菜が気になる)
 (昨日のあの表情……)

 会議中にもかかわらず、怜司はスマホを取り出す。
 紗菜からのメッセージは一つもない。

 (おかしい……)

 落ち着かない。
 紗菜がどうしているのか、気になって仕方がない。

 会議が終わるや否や、怜司は屋敷へ戻った。



 ガチャッ――玄関を開けて叫ぶ。

 「紗菜!!」

 返事がない。
 屋敷中を歩き回りながら叫ぶ。

 「紗菜、どこだ!!」

 使用人たちが不安そうに答える。

 「……桜井様なら、先ほど……裏口から……」

 怜司の心臓が止まりそうになった。

 裏口?

 ――逃げるつもりだ。

 その考えが脳を貫いた瞬間、怜司は駆け出していた。

 長い廊下を走り抜け、庭へ飛び出す。

 「紗菜!!どこだ!!」

 焦りと恐怖で心が張り裂けそうだった。
 声が掠れるほど叫びながら、屋敷の外を見渡す。

 そのとき。

 門の外へ向かう細い道。
 スーツケースを引く、見慣れた後ろ姿が見えた。

 「紗菜!!」

 紗菜の足が止まる。
 でも振り返らない。

 怜司は全身で風を切るように走り出す。

 「紗菜!!行くな!!」

 その声に、紗菜の肩が震えた。
 でも、それでも紗菜は振り返らない。

 怜司が伸ばした手は、あと少しで紗菜の腕に届く距離まで近づいた。

 「紗菜……!!」

 その叫びが、夕焼けの空へ震えるように響いていた。
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