半年限定の花嫁だけど、本気で求められています

最終話 別れの日に起きる奇跡

怜司の声が耳の奥で震える。
 「紗菜!! 行くな!!」

 その必死な叫びに、紗菜の足が止まった。

 でも――振り返れない。
 振り返ったら、泣き崩れてしまうから。

 (もう……戻れないよ……怜司さん……)

 スーツケースの取っ手を強く握りしめ、紗菜は前へ進もうとした。

 その瞬間。
 怜司が追いつき、後ろから紗菜の腕を掴んだ。

 「……どこへ行くつもりだ」

 声は震え、息も荒かった。
 会議帰りとは思えないほど乱れた姿。

 紗菜は顔を上げられなかった。

 「……ここにいたら……怜司さんに……迷惑をかけるから……」

 「誰がそんなことを言った」

 「舞さんが……
  怜司さんは……私が依存しないように……距離を置いたって……
  正式婚約の相手は別にいて……私じゃないって……」

 怜司が荒く息を呑んだ。

 「……舞か」

 怒りと悲しみと焦りが入り混じった声。
 怜司は紗菜の体を引き寄せ、正面から抱きしめた。

 「全部――嘘だ」

 紗菜の目が大きく開く。
 怜司は紗菜の肩を掴み、顔を上げさせた。

 「正式婚約なんて話は受けていない。
  俺が距離を置いたのは……お前を壊しそうで怖かったからだ」

 「……こわ……い?」

 怜司は苦しそうに目を伏せた。

 「俺は……お前に触れると、我慢ができなくなる。
  契約の枠に収めておくなんて、とうに無理だったんだ」

 その言葉に、紗菜の胸がしんと震えた。

 怜司の指が紗菜の頬に触れ、震える声が落ちる。

 「……紗菜。
  お前がいなくなるのを想像しただけで……息ができなくなる」

 紗菜の視界が揺れた。
 涙がこぼれそうなのに、頑張ってこらえる。

 でも――怜司は優しく紗菜の涙をぬぐった。

 「泣くな。
  泣かせたのは……全部、俺の弱さだ」

 紗菜は震える声で言った。

 「私……怜司さんが優しすぎて……
  本気にしちゃって……
  好きになって……苦しかった……」

 怜司の胸がびく、と震えた。

 「紗菜……」

 その名を呼ぶ声が、今までで一番切なくて甘かった。

 怜司は紗菜の両頬をそっと挟み、まっすぐ見つめる。

 「俺は……ずっと前から本気だった。
  気づかれないように距離をとって……
  それで余計にお前を傷つけた。
  ……情けない話だ」

 紗菜の胸が熱くなる。
 けれど、信じたい気持ちと、怖い気持ちが交差する。

 「ほんとに……?
  契約だからじゃなくて……?」

 怜司は、迷いなく首を振った。

 そして――

 紗菜の手をそっと取って、自分の胸に当てた。
 脈が、速く打っている。

 「聞こえるか。
  お前を見ると……いつもこうなる」

 紗菜の息が止まった。

 怜司は続ける。

 「紗菜の笑う顔も、困った顔も、泣きそうな顔も……
  全部、誰にも見せたくない。
  俺だけが知っていたい」

 紗菜の心臓がきゅっと痛くなる。
 怜司の声が低く落ちる。

 「身分差なんて関係ない。
  契約でもない。
  “お前じゃないとだめなんだ”」

 その告白は、あまりにも真っ直ぐで。
 紗菜の涙が溢れた。

 怜司は紗菜を抱き寄せ、髪に顔を埋める。

 「……帰ってこい、紗菜。
  俺の隣に」

 紗菜は怜司の胸の中で泣きながら、かすかに声を絞り出した。

 「……怜司さん……私も……一緒にいたい……
  本当はずっと……」

 怜司の腕が強く締まる。
 震えるほど愛おしげに。

 夕暮れの庭で、二人はしばらく抱き合っていた。

 やがて怜司は、紗菜の肩に手を置き、優しく顔を上げさせた。

 そして――紗菜の涙の跡を親指でそっとなぞり、
 ゆっくりと言葉を紡いだ。

 「紗菜。
  契約なんて、もういらない」

 胸が高鳴る。

 怜司は紗菜の手を握り、指を絡めながら、
 まるで宝物を扱うように言った。

 「俺と……結婚してくれ」

 紗菜の呼吸が止まった。
 世界が一瞬で静かになった。

 怜司の瞳は真剣で、迷いが一つもなかった。

 「身分差も、過去も、未来も……全部一緒に背負う。
  紗菜以外の誰とも、俺は生きられない」

 涙が溢れ、紗菜は震える声で答えた。

 「……はい……
  怜司さんと……結婚したいです……」

 怜司の表情が、ゆっくりとほどけていく。
 紗菜を抱き寄せ、温かく包み込んだ。

 そして――。

 怜司は紗菜の顎をそっと指で上げ、
 迷いなく唇を重ねた。

 深く、優しく、
 でもずっと欲しかった温度で。

 紗菜の背中に回る怜司の手が、震えるほど愛おしい。

 キスが終わる頃には、二人の間にもう迷いはなかった。

 「紗菜」
 「……はい」
 「俺の妻になれ。
  一生、離さない」

 「離れません……ずっと、そばにいます」

 夕焼け色の庭で、
 紗菜と怜司はようやく“本当の夫婦”になる未来を見つけていた。

 涙の中に笑顔が混ざり、
 風がそっと二人を祝福するように吹き抜けた。

 ――この日、
 桜井紗菜の人生は
 契約ではなく“運命の溺愛婚”へと変わった。
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