半年限定の花嫁だけど、本気で求められています

第3話 御堂家の洗礼と、初めての抱き寄せ

御堂家に入って三日目。
 “契約の婚約者”としての生活は慣れる暇もなく、紗菜の心は毎日忙しく動いていた。

 ただ――怜司との距離は、ほんの少し近づいていた。

 朝食の時間になると、怜司はさりげなく紗菜の向かいに座る。
 料理を口に運ぶ前に、ちらりと紗菜の皿を見て、
 「それ、熱いから気をつけろ」
 と、当たり前のように言ってくれる。

 そんな細かい優しさに胸がざわついて、
 (契約なのに、こんなのずるいよ……)
 と、思ってしまうのだ。

 しかし、この日の予定は――甘いだけでは終わらなかった。



 午前11時。
 重厚な玄関ホールに響いたのは、ヒールの高い音。

 姿を現したのは、怜司の母――御堂会長。
 鋭い目つき、きりりと結い上げた髪。
 周囲を圧倒する気品と存在感。

 (ひぃっ……モデルみたい……!)

 美しすぎて、怖い。
 それが紗菜の第一印象だった。

 会長の視線が、紗菜の上をすべるように動く。
 一瞬で全身を値踏みされた感覚に、小さく肩が震えた。

 「……この子が、あなたの“契約妻”?」
 容赦のない声音。

 怜司は一歩前に出る。
 「そうだ」

 「聞いて驚いたわ。まさか、
  “どこの家の娘かもわからない普通の子”と契約するなんて」

 ぐっ……。
 紗菜の胸がきゅっと痛んだ。

 (普通……確かに、私は普通だけど……
  でも、面と向かって言われると……こんなに痛いんだ……)

 会長はさらに追い打ちをかけるように続けた。

 「あなたの婚約者候補は各界の名家のご令嬢ばかり。
  どうしてこの子なの?」

 怜司は静かに答える。
 「俺が選んだ。それだけだ」

 その言葉に紗菜の胸が跳ねた。
 でも会長は納得しない。

 「……半年だけの契約ならまだしも。
  本当に結婚するなんてことになったら――」

 怜司が動いたのは、その瞬間だった。



 ぎゅっ。

 紗菜の肩に怜司の腕が回され、驚くほど自然に抱き寄せられた。
 近い。
 体温が伝わる距離。

 「母さん」
 怜司の声が低く、鋭くなる。

 「彼女を侮辱するなら、ここから出ていってもらう」

 会長が目を見開く。
 「……怜司?」

 「俺の婚約者だ。契約であれ、俺の選んだ女性だ。
  これ以上、彼女を傷つける言葉は許さない」

 紗菜は息が止まった。
 (守ってくれてる……? 私なんかを……?)

 怜司は紗菜の耳元で、かすかに囁く。
 「大丈夫だ。俺がいる」

 その声が甘くて、熱くて。
 胸がぎゅうっと苦しくなる。



 会長はしばらく沈黙し、
 深くため息をついたあと、紗菜に向き直った。

 「……あなたが悪いわけじゃないのよ。
  ただ――あなたほど苦労して生きてきた子が、
  この家の圧に耐えられるのか、心配なだけ」

 心配……?

 会長の瞳が少しだけ揺れる。
 「御堂家はね、幸せだけじゃ済まされない家。
  あなたが傷つくのを見たくない……そう思ってしまったの」

 その言葉は、責めるというより“覚悟を問う”ものだった。

 紗菜は胸に手を当て、小さく頷く。

 「……正直、とても不安です。
  背中が震えるくらい、不安で……。
  でも……」

 怜司の腕が、ぎゅっと強くなる。
 紗菜は勇気を振り絞り、続けた。

 「怜司さんが選んでくれた意味を、
  ちゃんと……見つけたいと思いました」

 怜司が驚いたように目を瞬く。
 会長はわずかに目を細め――

 「……その覚悟があるなら、見させてもらうわ」

 それだけ言って踵を返し、去っていった。



 会長が出ていくと、紗菜はその場にへたり込みそうになる。
 「はぁぁぁ……緊張したぁぁぁ……!!」

 怜司は思わず吹き出した。
 「お前、正直すぎるだろ」

 「だって……!
  あんな迫力ある人、初めて見ましたよ……!
  しかも“普通の子”って……わたし……っ」

 泣きそうになって俯いたとき――

 怜司がそっと紗菜の頬を指で持ち上げた。
 目が合う。
 近い。

 「……普通が、悪いのか?」

 「え?」

 「俺は……“普通の幸せを知っている”お前がいい」

 低く甘く、胸を溶かす声。

 「だから……泣くな」

 紗菜は目を瞬くしかできなかった。
 怜司は続ける。

 「泣くと、守りたくなる」

 ――ぐらん。

 世界が揺れた気がした。
 胸の奥が熱くて、苦しくて。

 そんな紗菜の反応に気づいたのか、怜司の耳がわずかに赤くなる。
 けれど視線は逸らさないまま、そっと紗菜を抱き寄せた。



 ぎゅうっ。

 背中に回された腕は強くて温かい。
 紗菜は息を飲んだまま、ただその胸に身を預けた。

 「……怖い思いをさせて悪かった」
 怜司の声が、肩に落ちるように囁かれる。

 「でも……もう大丈夫だ。
  俺が守る」

 その一言で、涙がまた込み上げてきた。

 (もう……こんなの……好きになっちゃうよ……)

 紗菜は、怜司の胸の中でそっと目を閉じた。

 “身分差”という大きな壁の前で、
 怜司は確かに紗菜の手を握ってくれた――
 そのことが胸の奥で温かく光り続けていた。
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