半年限定の花嫁だけど、本気で求められています

第4話 財閥のルールと、すれ違う想い

御堂家での生活が始まって一週間。
 紗菜は、毎朝部屋の鏡の前で深いため息をつくのが習慣になっていた。

 高級ブランドのワンピース。
 髪はプロにセットされ、靴は歩くだけで心臓が鳴りそうなくらい高価。
 なぜこんな格好になってしまったかというと――怜司の母、会長が命じたからだ。

 「婚約者とはいえ、御堂家の名に恥じない格好をしてもらいます」

 そう言われて始まったのが、マナー訓練。
 立ち方、座り方、ナイフの持ち方、笑い方まで、“淑女としての基本”とやらを徹底的に叩き込まれた。

 もちろん、悪気があるわけじゃない。
 たぶん、本気で紗菜のためを思って言ってくれている。
 でも――それでも胸が苦しかった。

 (私なんかが……怜司さんの隣に立っていいのかな)

 午後になると怜司が仕事から戻ってくる。
 そのたびに、何気なく紗菜の服装に目を滑らせてくるのがわかった。

 「……よく似合ってるな」

 それだけを落とすように言って、先に書斎へ向かう。
 短い言葉なのに、頬が熱くなる。

 だけど――問題は、そのあと。

 ある日の夕食の席。
 会長がワイングラスを置きながら紗菜を見た。

 「桜井さん。来週のチャリティパーティに同行してもらいます。怜司の婚約者として相応しい振る舞いが求められますから、今の訓練は必須です」

 「……はい。が、がんばります」

 「がんばる、ではなく、できるようになってください」

 その一言が鋭く胸に刺さった。

 (私、ずっと普通に生きてきただけなのに……
  こんなに、何もできないんだ……)

 会長が席を立つと、怜司が紗菜の皿をちらりと見て、問いかけた。

 「食欲がないのか?」

 「……ちょっとだけ、疲れてて……」

 紗菜は無理に笑った。
 だけど、怜司の眉がゆるく寄る。その表情だけで胸がきゅっとなる。

 「無理はするなと言ったはずだ」

 「でも……怜司さんの、婚約者として、ちゃんとしないと」

 「……紗菜」

 名前を呼ばれただけで、身体がびくっと反応した。
 怜司は一瞬言葉を探すように視線を落とし、ごく静かに言った。

 「できないことがあってもいい。
  誰だって最初は何もできない。
  ただ……」

 視線が、紗菜の手の震えに止まった。

 「お前が壊れるまで頑張る必要はない」

 その優しい声が、逆に胸に刺さる。
 もしここで甘えてしまったら、きっと自分は“怜司の隣に立てる女性”になれない。

 「……でも、私……怜司さんの負担になりたくない……」

 その瞬間だった。
 怜司が立ち上がり、椅子の横にしゃがむようにして紗菜の手を取った。

 「紗菜。俺は……お前を負担だと思ったことなんか、一度もない」

 その真剣な声に、喉が熱くなる。

 「だけど……」
 紗菜は唇を噛みしめ、目をそらした。
 「怜司さんの世界では、私は……足手まといにしか見えないんじゃ……」

 自分でも信じたくない言葉だった。
 でも、出てしまった。

 怜司はゆっくりと立ち上がり、紗菜の肩に手を置いた。

 「……紗菜」

 呼ばれた瞬間、腕の中に引き寄せられた。
 背中に強い腕が回り、胸に押しつけられるように抱きしめられる。

 「離れるな」

 低く落ちる声に、身体が震えた。

 「いいか……お前が不安になるのは、俺がちゃんと言わなかったからだ。
  俺がお前を選んだ理由は、肩書きある女たちにないものを持っているからだ」

 紗菜の呼吸が止まった。

 「……俺は、お前に支えられてる」

 胸が焼けるように熱くなる。
 涙がぽろりとこぼれた瞬間、怜司は指でそっとそれを拭った。

 「お前は足手まといなんかじゃない。
  むしろ……いなきゃ困る」

 耳元で落とされる甘い声が、心臓を乱す。
 紗菜は怜司の胸に顔を押し付け、かすかに震えた声を絞り出す。

 「……そんなふうに言われたら……私……もっと好きになっちゃう……」

 怜司の腕が強く抱き寄せる。
 喉元で短い息が落ちた。

 「……それが困るとでも思ってるのか?」

 囁きが近い。
 唇が触れそうな距離まで怜司が顔を寄せ、
 そのまま――紗菜の額にそっとキスを落とした。

 甘い音が、静かなダイニングに溶けていく。

 「――離れるな。俺のそばにいろ、紗菜」

 その言葉は、契約以上の意味を持っていた。
 胸の奥で、じんわりと温かい光が広がっていく。

 (この人を……もっと知りたい。
  もっと、そばにいたい)

 身分差の壁はたしかに高い。
 でも怜司の腕の中だけは、どんな場所よりも安心できた。

 紗菜はそっと怜司の胸に頬を預け、静かに目を閉じた。
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