半年限定の花嫁だけど、本気で求められています

第8話 心が追いつかない恋、そして破られる秘密

怜司にキスされかけた帰り道――。
 紗菜は自室のベッドに倒れ込み、胸に手を当てた。

 (……だめ……落ち着いて……)
 (怜司さん、あんな顔で……あんな距離で……)

 触れられた頬がまだ熱い。
 額を合わせられたときの、指先が絡むような呼吸。
 体温。
 声。

 思い出すたび、身体がふるえてしまう。

 (この気持ち……なに……?)

 考えればすぐにわかる。
 わかりたくないのに、わかってしまう。

 ――好き。

 言葉を胸の中で転がした瞬間、息が詰まった。
 まさか、契約で始まった関係なのに、本気で恋をしてしまうなんて。

 (でも……“契約”なんだよね)

 半年経てば、終わる。
 怜司にとって自分は“用意された代替”にすぎない。
 そう思うと、さっきの甘さが嘘みたいに胸が痛んだ。

 (私が好きになったって……意味ない……)

 涙がにじみ、目元をぬぐおうとしたその時――。

 コン、コン。

 ノックの音。

 「紗菜、起きてるか」

 怜司の声だった。
 涙をこらえたまま扉を開けると、怜司が立っていた。
 シャツのボタンを少し外し、仕事帰りの疲れた姿が妙に色っぽい。

 「……さっきのこと、気にしてるか?」

 紗菜はかすかに首を振る。
 本当は気にしすぎて眠れそうにないのに。

 怜司は、そんな紗菜を見つめて小さく笑った。

 「無理はするな。お前は……すぐ顔に出る」

 紗菜は頬を押さえた。
 その仕草を見た瞬間、怜司の目がすっと細くなった。

 「……泣いたのか?」

 紗菜は慌てて否定する。
 「違います! ちょっと疲れてただけで……」

 「紗菜」

 怜司の声が、さっきよりずっと低い。
 腕が伸び、紗菜の腰をそっと引き寄せる。

 「俺の前で、強がるな」

 (……泣いちゃう……)

 胸の奥が甘く締めつけられた。

 その瞬間だった。

 廊下の向こうから、ヒールの硬い音が響く。
 会長――怜司の母が歩いてきたのが見えた。

 「……怜司、少しよろしい?」

 怜司の手が紗菜の腰から離れる。
 紗菜は一歩下がり、慌てて姿勢を正した。

 会長は相変わらず冷静で、視線は紗菜に向けられたままだった。

 「桜井さん。あなた……“契約の内容”、周囲に漏らしたことは?」

 「えっ……? いえ、そんな……!」

 「今日、いくつか問い合わせがあったわ。
  “御堂怜司の婚約は契約であるらしい”と」

 (そんな……誰にも言ってないのに……)

 怜司が険しい顔になる。
 「舞か」

 その名前を聞いた瞬間、紗菜の背筋がぶるっと震えた。
 舞――あの完璧な女性。
 さまざまな媒体とも繋がりがあると噂される人。

 会長は重い声で続ける。

 「桜井さんが軽率だとは言わない。
  でも、契約であることが表に出れば、怜司にとっても不利になる。
  あなたは何も悪くない……ただ、覚悟が必要よ」

 “覚悟”。
 その言葉が重く落ちる。

 紗菜はぎゅっと拳を握った。
 「……わかっています。私のせいで迷惑をかけたくないです」

 怜司の眉が深く寄る。
 「紗菜のせいじゃない。母さん、紗菜を責めるな」

 会長はふっと小さく息を吐いた。
 「……怜司。あなたがそう言うならいいわ」

 立ち去る会長の背中が見えなくなった瞬間――。

 「紗菜」

 怜司は紗菜を引き寄せた。
 今度は迷いがなく、強く。

 「……苦しい思いをさせて悪かった」

 「私のせいじゃ……ないのに……」

 「違う。俺のせいだ。
  お前をこの世界に連れてきたのは、俺だ」

 紗菜は怜司の胸元を握りしめ、震える声で呟いた。

 「……怜司さん、私……本当に、迷惑じゃないですか……?」

 怜司の腕が強く締まる。

 「迷惑なはずがない。
  お前がいなかったら……俺はもっと壊れていた」

 耳元で落ちる声が甘くて、切なくて、涙があふれた。

 怜司は紗菜の頬に手を添え、親指で涙を拭う。
 その仕草が優しすぎて、鼓動が乱れる。

 「……紗菜。
  お前を守るのは、俺の役目だ」

 声が震えていて、
 今にもキスしそうなほど顔が近い。

 でも……

 怜司はあと少しのところで、静かに目を閉じた。

 「……今日はやめておく。
  こんな顔のお前に……触れたら、止まれなくなる」

 紗菜は胸が焼けるように熱くなった。

 (止まれなくなるって……どういう意味……?)
 (怜司さん……私のこと……)

 これ以上考えると、本当に涙が溢れそうで、紗菜はそっと目を閉じた。

 怜司の腕の中で聞こえる鼓動。
 それが紗菜の鼓動と重なっていく。

 偽りの契約婚。
 だけど――。

 ここにある感情だけは、偽れなかった。
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