届かない想いの先で、あの日の君に伝えたい。

あの日の君に伝えたい。

***

 目を閉じているはずなのに、目を閉じたくなるほどの強い光を感じる。周りがうるさくて耳を塞ぎたくなる気持ちを抑えながらゆっくりと瞼を開けると、視界に広がる自室の天井と枕元で鳴り響くスマホのアラーム音に朝が来たことを理解する。アラームを止めればリビングの方からテレビでニュース番組を見ている音がする。

「おはよう」

 ぼさぼさの頭のままリビングに顔を出せば、両親が揃ってテレビを見ていた。母はこちらに気づくと立ち上がり、キッチンへと向かう。

「朝ごはんできてるから、はやく準備しなさい」
「うん」

 目をこすって顔を洗いに向かえばニュース番組では天気予報を知らせているのが聞こえた。

今日も晴れるけど、明日は夕方から雨か……

 そんなことをぼんやりと考えながら洗面所で水で顔を洗っていた。


 昨日とは比べ物にならない校内の賑やかさに、今日は文化祭当日なのだと再認識させられる。今日は朝礼は行われず、九時半から文化祭が開始する。うちのクラスは九時に全員集合して、最終確認が終わればそれぞれシフトの人は仕事をし、シフト外の人は自由行動となっている。
 時計を見れば八時五十八分を示している。教室を見渡せばほぼ全員が揃っている。

「あと一分……」

 そうしている間にも秒針は進み、五十九分になる。何度教室を見渡しても一人だけ足りない。九時になったら電話をしようと思いながら時計を見つめる。

「ごめん、遅くなりました」

 秒針がちょうど真下を指したころ、教室のドアがガラガラと開かれる。

「おはよう高見さん。今九時になるころだから大丈夫だよ」
「ぎりぎりになっちゃった。ごめんね」

 教室まで走ってきたのか彼女は肩で息をしている。

「ぎりぎりなんて珍しいね」
「ちょっと寝坊しちゃった」

 目元が少し赤く見えるのは寝坊してしまったからなのだろうか。乱れた前髪を手で整えた彼女はいつもよりも少し幼く見える。
 彼女の呼吸が落ち着いたのを見届けて、全体に向かって声を上げる。ざわざわとしていた教室は静かになり、模擬店の最終確認や連絡事項を伝え終えるといよいよ文化祭が始まった。

 文化祭一日目は保護者と中学生のみへの公開、二日目が一般公開になっている。二日目ほど人はいないものの、一日目である今日も十一時を過ぎると人が多くなっていた。
 俺と高見さんの模擬店のシフトは今日の午前となっており、十二時までは二人とも教室だ。お化け屋敷カフェをしているうちのクラスはそこそこの集客で、列はできないものの常にほぼ満員状態だ。

 各時間帯に、接客・調理を担当する人をそれぞれ三名、お化け役三名、受付一名の計十名がいる空間。真っ暗な教室内での明かりは、六つの食事席に置かれたライトと接客の人が持っているライト、調理スペースを照らすライトだけだ。不気味な雰囲気の中でお客さんは食事し、お化け役は数十分おきに驚かしている。お化け役は校内を宣伝してまわこともあり、それぞれしっかりと役割を果たしている。

「Aセット二つお願い」
「はーい」

 俺は接客を担当、高見さんは調理を担当している。始めは少しもたもたとしていたが、十一時を過ぎた今ではみんなスムーズな連携を取れるようになっていた。それぞれに余裕ができて、クラスメイトも楽しんで仕事をしていると思ってもいいだろうか。

「Aセットできました」
「ありがとう」

 トレイを受け取りお客さんの席まで運んでいく。すっかり慣れて流れ作業のように提供を終えれば、他の席が一つ空いたことに気づく。残された使い捨ての皿とコップを捨てて机とトレイを綺麗に拭く。元の状態に戻れば新しくお客さんを入れることができる。

「和泉、一組入れるー?」

 ちょうどのタイミングで入口のドアを少し開けて受付から声がかかる。

「大丈夫だよ」

 そう答えれば、ドアを完全に開きお客さんが教室に入ってくる。席まで案内するために入口の方へ向かえば見知った顔に笑顔が固くなるのを感じる。

「ちゃんと頑張ってるのね」
「母さん……」

 油断していたと言うべきか、忘れていたころに宣言通りやってきたのは両親だった。今朝、家を出る前に「今日の午前中に行くね」と言っていたが、本当に来られるとどう対応していいのか困ってしまう。

「席、案内するよ」

 先ほど片付けたばかりの席に案内しメニューを置く。母はずっといつも以上にニコニコしており、その笑顔に居心地が悪くなる。父はいつも通り表情はあまり変わらず、お化け屋敷がコンセプトのこの空間とは不釣り合いで不思議な感覚だ。

「二人、和泉くんのご両親?」

 注文を聞き調理スペースまで行くと、手の空いていたクラスメイトから問われる。

「そう。来ないでって言ったんだけど」
「いいじゃん! ね、高見さん」
「え?ああ、うん」

  ぼーっとしていたのか、突然話しかけられた彼女は一瞬戸惑いながらも答える。

「はいっ、ご両親の注文できたよ」
「ありがとう」

 トレイを受け取り運んでいると、後ろから視線を感じたのは気のせいだろうか。


「じゃあ、私たちは帰るね。文化祭楽しみなさいね」
「うん。ばいばい」

 教室横の廊下で両親が帰っていく背中を見つめる。十二時になり入れ替えとなったタイミングに重なり、少しだけ両親と話していた。両親の背中が見えなくなるころ、着替えていた高見さんがちょうど帰ってきた。

「ご両親と仲良いんだね」
「そんなことないと思うけど……。じゃあ文化祭まわろうか」

 これからは完全に自由行動になる。二人とも制服になり、明確な目的地も決めずに歩き出す。

「お腹空いたね」
「そうだね。和泉くん食べたいものある?」

 あと少しで手が触れてしまいそうな距離でゆっくりと歩く。非日常的な空間で誰も彼もが浮かれている。その中には自分も含まれているのだとはっきりとわかっている。

「定番だけど焼きそばとかたこ焼きとか……迷っちゃうね」
「じゃあ、とりあえず外の屋台見てみない?」
「そうだね。行こう」

 中庭には焼きそばやたこ焼きといった定番の屋台や、たい焼きや焼きドーナツといったデザートの屋台など十団体ほど出店されている。
 屋台を見て悩んだ結果、買ったのは定番の焼きそばとたこ焼きで、それを二人でシェアして食べた。
 普段の学校では堂々と二人きりで歩くことはない。そんなことも気にならないのは周りもそんな人ばかりだからか、それとも文化祭の雰囲気にあてられているからだろうか。

 二人で過ごす文化祭は、午前中よりも時間の流れが早く感じる。ご飯を食べて、他のクラスをまわって、デザートも食べて、あっという間に十五時になる。十五時からクラスメイトがステージでバンドをやると話していたことを思い出し、二人で体育館に向かう。
 外からの光を遮断し、ステージ以外の照明を落としている体育館は映画館のように暗い。足元に気をつけながら既に集まっている観客の後ろの方に行く。

「結構人いるんだね」
「うん。あ、もうすぐ始まりそう」

 ステージに目を向けた高見さんがMCの生徒が出てきたことに気づく。出てきたMCは今日のステージはバンドが三組あると話している。早速一組目のバンド名を紹介し、緞帳が上がれば照明もカラフルになる。
 バンドの演奏と観客の盛り上がりが合わさり体育館を揺らし、文化祭自体の盛り上がりを感じる。
 ふと左を見ればステージを真剣に見つめる高見さんの横顔がある。その表情から目を離すことができず、じっと見つめているとゆっくりとその横顔がこちらを向く。彼女と目が合い、見つめていたことを誤魔化すようにサッとステージに視線を戻した。

 クラスメイトのバンドは三組だったらしい。一組目が終わり、二組目が終わり、いよいよ三組目が始まる。
 緞帳が上がり、ドラムのスティックカウントの後に演奏が始まる。それに合わせた演出のための照明が真っ白にステージを照らす。

 ――真っ白な光が俺の視界を覆った。

 耳を劈くようなブレーキ音が聞こえる。うるさく鳴るクラクションが聞こえる。反射的に顔を向ければライトをつけた自動車がこちらに向かっている。運転手が慌てたようすで必死に何か叫んでいる。
 ここはきっと、何度か行ったことのある場所だ。俺の通っていた中学校から少し歩いたところにある、人通りはほとんどない橋の歩道にきっといる。
 日がほとんど落ちているのに加え、ザーザーと降り注ぐ雨で当たりは薄暗くなっている。体を打ちつける大粒の雨で肌に制服が張り付いて気持ち悪い。なぜ傘を差していないのだろう。
 はっきりしない記憶を蘇らせようと瞬きをすると、数歩先に彼女が現れる。
 冷たい。眩しい。うるさい。
 ――守らなきゃ。
 彼女に向かって手を伸ばす。必死に手を伸ばした。


「……くん。和泉くん」
「あぁ……」

 高見さんの呼びかけで現実に戻る。

「ぼーっとしてたね。もうステージ終わったよ」
「あ、ごめん。帰ろっか」

 気がつけばバンドは終わり、観客もぞろぞろと帰り始めていた。クラスメイトのバンドを見に来たはずなのに、その記憶は残っていない。最初の二組の演奏さえ今では思い出せないほど、先ほどまで見ていた光景が頭を離れない。
 その動揺を、うるさくて仕方ない心臓の音を隠すように平然を装って彼女に笑いかける。

「汗すごいけど大丈夫?」
「ちょっと体育館の熱気がすごかったかも」

 へらりと笑って誤魔化す。このステージが終わったということはもうそろそろ十六時になる。十六時になれば今日の文化祭は終わりだ。二人で教室に戻り、片付けをしてそれぞれ下校になる。

 今日も自然な流れで、高見さんと二人駅まで帰ることになるはずだ。時間が経っても他の人と話していても、頭の中ではあの光景が流れている。

「高見さん。ちょっと寄り道して帰らない?」

 二人で正門を出て、彼女に話しかける。いつもと違う空気を感じ取ったのか、彼女は「いいよ」とだけ答える。落ち着いて話がしたくて、高校の近くの人のいない公園に寄ることにした。
 ブランコや滑り台、楽しく遊ぶための空間であるものの、楽しい気分では無い俺は彼女をベンチに促す。手元には自動販売機で買ったばかりのお茶。
 彼女が座ったのを確認して隣に腰を下ろす。数秒間の沈黙が流れた。彼女はきっと俺の言葉をまっている。お茶を一口飲んで口を開く。

「すごく、すごく変なこと言ってもいい?」
「……うん」
「記憶にないんだけど、思い出したことがあって。思い出したというか……夢見たいだけど現実みたいな感覚で」

 彼女はお茶を一口飲み、続きの言葉を待っている。

「あのさ、もしかして俺たち事故にあったことある?」

 どう説明すれば良いのかわからず、それでも彼女なら何か知っているのではないかと思ったままのことを言葉にする。彼女はその問いかけに、強く唇を噛んで動揺を隠しているようだ。

「知らないなら意味わかんないって笑って欲しい。でも、何か知ってるなら教えて欲しいんだ」
「……知らないって笑いたいけど、多分知ってるよ」

 彼女は弱りきった表情で口を開いた。

「タイムスリップしたかもって言ったら、和泉くんは信じてくれる?」
「……信じるよ」

 それからの彼女が話で、一つ一つのパーツが繋がっていくのを感じた。
 
 前の世界、文化祭実行委員になったことをきっかけに二人は仲良くなった。文化祭までの一か月で多くの時間を一緒に過ごした。
 文化祭二日目が終わった日、あの橋の上で歩道に自動車が突っ込んでくる事故が起こった。その被害にあったのが俺ら二人だ。二人とも病院に運ばれて、彼女を庇った俺だけがずっと目を覚まさなかった。
 そして事故の翌日、目を覚ましたら一か月前の実行委員会を決めた日にタイムスリップしていた。

 彼女自身の記憶も曖昧らしく、わかっていることはこれだけらしい。一か月前のあの日、目が合って驚いていたのはそういうことだったのだと、少しの違和感が解消されていく。

「和泉くんは私を庇ったせいで目を覚まさなくて。だからできるだけ関わらないようにしたかったのに……」
「俺は高見さんと仲良くなりたかったから」
「仲良くならなければあんなこと起きないはずだから避けようと思ってたのに、できなかった」

 俯く彼女の手のひらに涙がこぼれ落ちる。彼女は未来を変えようと、明日を変えようとしていてくれた。そんなことにも気づかず、呑気な自分に腹が立つ。かけられる言葉を見つけられず、日が落ちていく中で俯くしかできない。

「和泉くん、お願いがあるの」

 沈黙を破ったのは彼女だった。俯いていた顔を上げて、涙なんてなかったようにまっすぐこちらを見つめている。

「明日一日、話さないようにしよう。関わらないようにしよう」

 彼女の決意を無下にするようなことはできず、ただ「わかった」と言うことしかできない。
 それから二人駅まで歩いて、いつものように反対側の電車に乗って帰った。二人の間で会話が交わされることはなく、思い空気だけが流れていた。

 家に帰ると笑顔で迎えてくれた母に「ただいま」ということもできなかった。ずっと彼女の話だけが頭で繰り返されていて、彼女の涙が頭から離れなかった。今日は想いを伝えていないなんてことに気づかないほど、信じられない、信じたくない事実に混乱していた。

***

 文化祭二日目の学校は一日目以上に騒がしく、校内は人で溢れかえっている。すれ違う人はみんなキラキラとした表情をしていて、ほとんど眠れずに酷い顔をしている自分は異質なのだろう。
 登校してから高見さんとは一言も話していない。今朝メッセージで送った【おはよう】には既読だけで返信はない。それを責めることも俺にはできない。

「あっついな」

 一緒に校内をまわっていた友達が呟く。天気予報では夕方から雨と言っていたが、そうとは思えないほど今は晴れている。校内の熱気も加われば暑いと感じてしまうほどだ。

「和泉顔色悪いけど大丈夫?」
「大丈夫。寝不足なだけ」

 欠伸を噛み殺しながら答える。実際に寝不足だが、きっと顔色が悪いのはそれだけではない。

「そっか。そういえばお前最近、高見と仲良いよな」
「んー、まあそうかな」
「俺中学から高見と一緒だけど、あんなに人と一緒に過ごすの初めて見たよ」
「そうなんだ」

 高校よりも前の高見さんを俺を知らない。友達が言うには中学のころから彼女はしっかり者だったらしい。友達がいないとか、浮いているとかいう訳ではないが、彼女はいつもみんなと一線を置いて関わっているように感じるらしい。
 友達曰く、彼女は親と上手くいっていないとか。それが理由なのか分からないが誰かと一緒に過ごしすぎることを避けているように見えるらしい。

「知らなかった」
「中学では周りの噂で知ったから、本当かどうかはわからないんだけどな」

 友達はどうでも良さそうに言うと、そろそろシフトの時間だからと教室に帰って行った。
 
 友達の話を聞いて、嘘か本当かは置いといて今すぐ彼女に会いたくなる。昨日言われたお願いを破ることになっても、今彼女と離れることは正解ではない気がした。
 昨日彼女の話を聞いてからずっと、寝る時間さえ削って考えていた。どうしたら未来を変えられるのか。

 ずっと感じていた違和感がある。俺が昨日思い出した光景で、俺は彼女を守ることができていたのだろうか。伸ばした手が届いて、彼女を庇えていたのだろうか。
 雨が降る中で二人がいたのは俺の通っていた中学校近くの橋の上。彼女の帰る電車とは反対の方にある場所だ。

 彼女を探して校内を走り回る。すれ違うクラスメイトに話を聞いて、走って走って……。きっと彼女はここにいる。屋上の扉を開けると、フェンスに手をかけて空を眺める彼女の後ろ姿があった。

「高見さん!」

 昨日のお願いは聞くことができなかった。
 だって、俺らが事故にあったあの橋は俺らが初めて出会ったあの橋なのだから。
 俺が中学生のころ自殺するために訪れた、あの橋なのだから――


 振り返った彼女の髪型サラリと揺れた。彼女は目を見開いたまま動きが固まる。

「来ないで。関わらないって約束したじゃん」

 一歩彼女の方に足を進めると、慌てた様子で声を上げた。彼女は昨日とはまた違う動揺だけじゃない表情をしている。

「きっと他にも未来を変える方法はあるんじゃないかな」
「私たちが関わらないに越したことはないよ」

 彼女は爪が食い込むほど手のひらをぎゅっと握りしめている。二人の間に流れる沈黙を掻き消すように、学校は賑やかな笑い声が響いている。
 じっとこちらを見つめていた彼女の指先が突然小刻みに震えだし、何かを言おうと口を開いてすぐに閉じた。やがてごくりと唾を飲み込んで口を開く。

「……違う」
「え?」
「違う! 全部私のせいだ!」

 初めて見た彼女の声を荒らげる姿を見て、動揺よりも先に心配のような不安のような感情が湧き上がる。

「ごめん、ごめんなさい」
「高見さん……」

 俺の予感が的中してしまったということなのだろうか。彼女はまた涙を流している。

「私が……私が自殺しようとしたせいで」
「違う! あれは事故だったんだろう。雨でタイヤが滑った車が突っ込んだ事故だよ」
「結果はそうでも、私が死のうとしなければあの場所にいなかった!」

 涙を流す彼女はしゃがみこんでしまう。普段しっかりとしているその姿を想像できないほど、体が震えている。

「私が楽しいままで終わりたいと思ってしまったから……」
「高見さんの気持ち、苦しかったこと、俺に分けてくれないかな」

 何が正解かはわからないが、一人で抱えすぎてしまう彼女だから、一緒に抱えたい。ぽつりぽつりと彼女は語った。これまでのこと、あの事故の日のことを。

 彼女の母は十八歳で彼女を生んだ。父親の顔は知らず、物心着いたころは祖父母の家で暮らしていたらしい。
 十八歳は今では成人で、今の俺らと同世代だ。彼女の母はあまりにも子どもすぎた。心が子どもで母親になりきれなかった。いらないものはすぐに棄てる人間だった。ものだけでなく、口うるさく面倒な祖父母のことを棄てるように縁を切ったらしい。
 中学校に上がる前、彼女の母は結婚した。それから引っ越して今の家に三人で暮らし始めた。それでもずっと自分がいらなくなったら棄てられるのではないかと怯えていて、必要とされるように家事をやり、自慢できる娘になるように勉強だって頑張った。彼女の母と結婚し父親となった人は、彼女には無関心だったらしい。ただ、結婚を決めた人の娘だから一緒に過ごしているだけだった。
 彼女が中学三年になり、二人の間に子供が生まれた。四人家族になった彼女の家で、彼女だけ不完全な存在だった。二人の血を引く子どもが生まれてから、いついらないと言われるのか不安の中彼女は毎日を過ごしていた。

「文化祭一日目の朝、母親と喧嘩したの。ついにいらないって言われちゃった。だから文化祭が終わって、楽しい思い出のまま終わらせたいって思っちゃった」
「……俺は、俺が今いるのは高見さんのおかげなんだ。高見さんはいらない人なんかじゃない」

 中学三年生のころ、自分が存在しないような学校生活に耐えられなくなった俺はあの橋から飛び降りようとしていた。橋の下を見つめて何分も経過し、ようやく決心が着いたとき、背後から声をかけられた。それが高見さんだった。今よりも髪の毛は長かったけど見間違えなんかじゃない、あの日からずっと忘れられなかった。「どうせ学校生活なんて人生の一瞬だよ。周りの奴らに人生左右されるなんて馬鹿らしい。はやく家に帰って美味しいご飯でも食べなよ」とそう言った彼女は真っ直ぐこちらを見ていた。久しぶりに同年代の人に真っ直ぐ見られて、自分が馬鹿らしくなって、死ぬのも馬鹿らしくなった。

「あの日、高見さんが声をかけてくれたから今も生きているんだ」
「そんなの……あれは多分私が言って欲しかっただけ。あの日だって、順番待ちしてるようなものだった」

 彼女の祖父母は俺の通った中学校の近くに住んでいるらしい。まだ一緒に暮らしていたころ何度か橋を通ったことがあって、滅多に車も人も通らないことを知っていたようだ。
 彼女の両親に子どもが生まれたころ、棄てられるのではないかと不安であの橋を訪れることがあった。棄てられる前に消えてしまおうと思っていたらしい。何度も足を運んでは帰ってを繰り返してたある日、先客がいた。

「あの日、和泉くんを止めちゃったから自分も止めないとって思って、あれが最後のはずだったのに……」

 ずっと恐れていた「いらない」という言葉でまた同じ選択をしてしまった。
 そんな彼女の様子に気づいてあの橋に行くと、二人とも事故に巻き込まれてしまった。夕方から降り始めた雨が強くなったこと、滅多に通らない車があの橋を通ったこと、そしてそこに二人がいたことが重なって起きた事故なのだ。

「私がいなければ……私なんていらないのに!」

 彼女は勢いよく立ち上がる。そしてこちらを見つめたまま立ちすくんでいる。

「違う、高見さんはいらなくなんてない。俺には高見さんが必要なんだ」

 見つめ返すと、彼女の瞳が揺れる。彼女に伝えなくてはいけないことがちゃんと届くように真っ直ぐ、目を逸らすことはしない。

「高見さんが必要なんだ。だから、一緒に生きよう」

 止まり始めていた彼女の涙が再び流れ出す。そしてゆっくりと頷いて笑ったところで、彼女はバランスを崩した。

「高見さんっ!」

 手を伸ばす。必死に手を伸ばすが届かない。
 彼女が後ろに倒れていくのがスローモーションのように見え、目の前が真っ白に光った。
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