あの日、止まったままの時計

第12章:逃げ場のない檻(ケージ)


翌朝。
結衣は重い体を引きずるようにして、派遣会社へ向かっていた。
昨夜の雨で冷えた体よりも――心の方が、何倍も重い。
辞退を受け入れてもらい、別の職場を探すつもりだった。

だが、担当者の口から放たれた言葉は、予想とはまったく違っていた。

「水瀬さん、アドバンス・システムの瀬戸マネージャーから、直接連絡がありました。
“昨日の体調不良は一時的なものだと聞いている。プロジェクト継続を強く希望する”――と。
あんなに熱心に引き止めるなんて、異例よ」

昨夜の雨の中、立ち尽くしていた直人の姿が、胸によみがえる。

「業務続行」という名の――宣戦布告。
“逃がさない”という、静かな意思。

(どうして……真実を知って、もう顔を合わせる資格なんてないのに)

断る勇気も、理由も、いまの結衣には残されていなかった。

再び踏み入れる、24階のオフィス。
デスクへ向かうと、直人はすでに資料を広げていた。
昨夜の激しさが嘘のように、彼は冷徹な「瀬戸マネージャー」の顔に戻っている。

「おはようございます……」

蚊の鳴くような声の挨拶に、直人は一瞥すら寄こさず、キーボードの音だけを響かせた。

「水瀬さん。昨日渡した資料――十時までにサマリーを作っておいてくれ。
遅れた分は、仕事で取り返してもらわないと困る」

冷たい口調。
「やっぱり鬼だ」と、周囲の囁きが走る。

結衣は唇を噛み、パソコンを立ち上げた――が、ふと視線が止まる。

直人のデスクの端。
昨日、泥に汚れていたはずの “あのマグカップ” が、綺麗に洗われて置かれていた。

その隣には、無造作に置かれた一錠の風邪薬。

「……瀬戸さん。これ――」

「隣で咳き込まれると仕事の邪魔だ。さっさと飲め」

視線は画面から外れない。
だが――耳たぶだけが、わずかに赤く染まっていた。

結衣は気づいてしまう。
それが叱責でも、命令でもなく――
ひどく、不器用な気遣いだということに。

午後。
プロジェクト会議の最中、結衣は直人の指示出しの鮮やかさに息を呑んだ。
かつての優しい「なおくん」は、三年間で――
誰もが頼る、強く厳しいリーダーへと変わっていた。

一方、直人もまた、結衣が作成したサマリーの精度に目を見張る。

(……お前も変わったんだな。
俺の知らない場所で、必死に――生きてきたんだな)

互いに、
変化を認めざるを得なかった。

それでも、ふと目が合えば――
どちらかが、慌てて視線を逸らす。

誤解は解けた。
だが、三年分の「沈黙」と「憎しみ」の壁は、いまだ高く聳えたまま。

その時、直人のスマホに通知が入った。

『サオリ(姉):直人、体調はどう? 結衣さんと話せた?』

結衣はその文字を見つめる。
今度は――“浮気”ではなく。

“壊してしまった幸福の象徴”として。

胸が、静かに痛んだ。

「……水瀬さん。今日の残業、つき合ってもらうぞ」

直人は低く言う。

「三年分の――いや、昨日の遅れを取り戻す必要があるからな」

それは、ただの業務命令のはずなのに。
結衣の耳には――

不器用な、
小さな“一歩”の音として、届いた。
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