あの日、止まったままの時計

最終章:重なり合う時計の針

あれから、さらに一年の月日が流れた。

都心の喧騒から少し離れた町。
ゆるやかな坂道の途中に建つ古いアパートのベランダには、二つのマグカップが並んでいる。ひとつは取っ手が少し欠けたネイビー、もうひとつはほんのりバニラの香りを纏った、かつての二人の日常を象徴するお揃いのカップだ。

「なおくん、朝ごはんできたよ」

結衣の声に、デスクでパソコンに向かっていた直人が顔を上げる。
今の彼は、表舞台で脚光を浴びるマネージャーではない。小さな修繕や個人案件を地道に請け負うフリーランスのエンジニアだ。かつての地位も高給も失った――それでも、その瞳には三年前よりも深い安らぎが宿っている。

「今行く。……このコード、あと少しで終わるから」

直人は椅子を引き、食卓についた。
結衣の手料理。湯気の立つ味噌汁。窓から差し込むやわらかな朝の光。

それは、一度は失われ、血を吐くような思いで取り戻した――
二人にとっての「本当の幸せ」だった。

結衣はほどなくして蓮の会社を辞めた。
蓮は最後まで引き止めたが、やがて肩を落として笑い、「君には勝てないな」と言って、二人の門出を祝ってくれた。

今の結衣は、地元の小さな図書館で司書として働いている。
収入は以前の半分以下。それでも、仕事が終わればすぐに直人の待つ家へ帰れる――その何気ない当たり前が、今の彼女には何より愛おしい。

食後、直人はふと思い出したように棚の奥から小さな古びた箱を取り出した。

「結衣、これ。……今日、やっと渡せる気がして」

中に入っていたのは、あのプラチナの指輪。
病室で結衣が自ら指にはめたあと、直人が一度預かり――ひとつの「魔法」を託していた。

「よく見て」

結衣が指輪の内側を覗き込むと、そこには三年前にはなかった刻印があった。

『5/15 — Start Again』

「誕生日の日付の横に、“再始動”って刻んだんだ。
俺たちの三年間は無駄なんかじゃない。あの絶望があったから、俺は――本当に、お前を愛する意味を知った」

直人は結衣の左手を取り、今度は自分の手で、その指にリングを滑らせる。

「……もう、二度と離さない。何があっても、俺がお前を守る」

結衣の瞳から、温かい涙が溢れた。
それは悲しみでも絶望でもない――未来を信じる、静かな喜びの涙。

「……うん。私も、もうどこにも行かないよ」

窓の外では、季節外れの桜が風に舞っている。

第1章で語り合った「小さな幸せ」は、形を変えながら、より強く、より深く――今も二人の間に根を張っていた。

かつて止まってしまった二人の時計の針。
それは今、力強い音を刻みながら、確かに未来へと進んでいる。

幸せの形は、人それぞれだ。

けれど、この小さな部屋に満ちる二人の笑い声こそ――
彼らにとっての、たったひとつの正解だった。

【完】
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