ホラースイーツを召し上がれ

第1話

その一口で、私の名前は世界から消えた。

『ホラースイーツを召し上がれ』

黒い箱のふたの裏に、上品な文字でそう書かれていた。

甘い――苺の匂い。なのに、その奥に、どこか線香みたいな香りが混ざっている。
放課後の下駄箱で見つけた差出人不明の箱菓子を、私は「誰かのイタズラだ」と笑い飛ばしたはずだった。

ふたを開けると、苺大福が一つ。
苺だけが赤くて、周りの求肥は墨みたいに黒い。つやつやしていて、光を吸う。まるで、夜そのものを丸めたみたいだった。

「……なにこれ」

指でつつくと、ひやりと冷たい。冷蔵庫の冷たさじゃない。冬の朝の、鉄の手すりみたいな冷たさ。
でも、苺の匂いは甘くて、強くて、頭がふわっと軽くなる。

だから私は、口に入れた。

もっちり、ねっとり。
甘い。おいしい。……はずなのに。

舌の上で、苺の種が、ぷつ、ぷつ、と弾けた。
音じゃない。噛んだ感触でもない。頭の奥で、文字が割れるみたいな感覚。

次の瞬間――私は、自分の名前を忘れた。

「……え? ちょ、待っ」

声は出た。でも、その先が続かない。
自分の口が、いちばん知っているはずの二文字、三文字を、頑なに拒む。

「ねえ、あんた、どうしたの?」

友だちが覗き込む。私は必死に言おうとした。

「わ、わたし、――」

言えない。

喉が詰まるわけじゃない。舌がもつれるわけでもない。
ただ、そこだけ空白になっている。黒板の消し残しみたいに、きれいに。

「……あれ、名前……」

友だちも言葉を失った。まるで、私の名前が最初からこの世になかったみたいに。

ノートを開く。表紙に書いたはずの名前欄が、真っ白だった。
スマホの連絡先も、私の表示名だけが「――」になっている。

呼ばれない。
書けない。
思い出せない。

足元がふわっと浮く。怖い。甘い匂いだけが、やけに鮮明で。

私は箱を抱きしめるようにして走った。
どこへ行けばいいかなんて、考える余裕はなかった。

ただ、あの子なら――甘いもののことなら――
西川莉子なら、どうにかしてくれる気がした。



放課後の西川洋菓子店は、営業終了の札がかかっているが、甘い匂いがしていた。

私、西川莉子はボウルの中で生クリームを泡立てながら、ため息をついた。
期末テストの範囲表が頭にちらつくのに、手は勝手に泡立て器を握っている。

「……中二って、なんでこんなに忙しいの?」

大好きなお菓子作りが終わったら、このお菓子を食べながらテスト勉強を頑張ろう……。

そう思った瞬間、店の入口のベルが、ちりん、と鳴った。

「え、閉店……」

慌てて振り向くと、ガラス越しに見えるのは、制服の女子。
顔は見知っている。同じクラス――の、はず。

なのに。

「……えっと、誰だっけ」

喉まで出かかった名前が、ふっと消えた。

相手は、今にも泣きそうな顔で、黒い箱を抱えていた。

「西川さん……!たすけて。わたし……わたし……」

彼女は、自分を指さして、言葉を探す。でも、見えない壁にぶつかるみたいに、声が途切れた。

背筋が冷たくなる。
これ、ただごとじゃない。

「ちょ、ちょっと待って。裏の自宅の方に来て」

私はシャッターを半分だけ下ろし、彼女を店の裏側にある自宅へ案内した。
両親は材料の買い出しで、自宅を留守にしていた。

「莉子」

玄関のカギを開けていると、低い声が背後からする。

振り向くと、そこにいたのは東條紫苑。
全国でチェーン展開している老舗和菓子屋の御曹司で、同じクラスの秀才。
幼稚園の頃からの幼馴染。顔が無駄に整っていて、毎朝鏡と契約でもしてるのかってくらい眉目秀麗。

「……なんでここにいるの?」

「うちの母親が莉子ちゃんにおすそ分け持っていきなさいって」

「ありがとう!ってそれどころじゃない!!」

紫苑は視線を彼女――私が名前を思い出せない同級生へ向け、眉をわずかに寄せた。

「……状況説明を」

「うん。私もしたい。……でも、できない」

私は黒い箱を指した。

「それ、なに?」

同級生は震える指で箱を差し出した。
ふたの裏の文字が目に入る。

『ホラースイーツを召し上がれ』

「……趣味が悪い」

紫苑の声が、珍しく低い。

箱の中には、食べかけの黒い苺大福が一つ。
見た目はかわいい。苺は宝石みたいに赤い。だけど、求肥が黒くて、つやがある。光が吸い込まれる。

「におい……甘いのに、変」

私は鼻を近づけた。苺。砂糖。バニラ――の奥に、線香みたいな香り。

「これ、弔いの結びだ」

紫苑が箱のリボンを指でつまんだ。
赤白の水引が、祝いの蝶結びじゃない。きっちりと固く結ばれている。

「弔いって……和菓子こわ」

「君の洋菓子も、バターの暴力だろう」

「って、いまケンカしてる場合じゃない!……で、どういうこと?」

紫苑は箱の内側をじっと見つめた。
砂糖の粒が、きらきらと並んでいる。

私は見て、息を呑んだ。

砂糖が、文字になっていた。

『白石 朱音』

「……あ」

同級生が――朱音が、顔を上げた。目が大きく揺れる。

「それ……それ、わたし……?」

言えた。
でも、言い切れない。最後が、喉に引っかかる。

紫苑は冷静に続けた。

「君の名前だ。奪われて、この箱に移されたみたいだ」

「そんな……!」

私は思わず朱音の肩を掴んだ。冷たい。まるで彼女の体温が名前とともに奪われたようだ。

「……これ、戻せるの?」

紫苑は一瞬考えて、慣れた様子で我が家に入っていった。
そして、キッチン棚から塩の小瓶を取った。

「塩って、甘さを引き立てるやつでしょ?」

「そうだ。お菓子作りの際には甘さに輪郭を与える役割をする。だから、君の存在にも同じことをする」

紫苑は朱音へ塩粒を一つ、差し出した。

「舐めて」

朱音は怯えながらも、指先の塩を舌に乗せた。
少し顔をしかめる。

「……しょっぱい」

その瞬間、黒い箱の内側の砂糖文字が、ざわり、と揺れた。

「……動いた!」

「来るぞ」

じゅわっ。

音がした。砂糖が溶ける音。
甘い匂いが、いきなり焦げたみたいに変わる。線香の香りが、逆流する。

「いまだ。自分の名前を言え」

「……あ……あか……」

言葉が詰まる。喉に絡む糸。

私は朱音の手を握った。体温が、少し戻っている。

「朱音。白石朱音。私は朱音!」

箱の砂糖文字が崩れていく。
文字の輪郭がほどけるのに合わせて、朱音の目の焦点が合っていく。

「……しらいし、あかね……っ」

言えた。
朱音が、自分の名前を、最後まで言えた。

同時に、スマホが小さく震えた。
朱音の表示名が、「――」から戻っている。

朱音は泣き笑いの顔で息を吐いた。

「……戻った。わたし、戻った……!」

私は肩の力が抜けて、ふらっと笑った。

「よかった……ほんと、よかった……」

紫苑は黒い苺大福を、トングでつかんでボウルに移した。

「残骸は処理する。二次被害はリスクだ」

「中二の口からリスクとか出るの、じわる」

「経営の基本です」

さすが、秀才イケメン御曹司は言うことが違う。
てか、肩書強っ!

紫苑が黒い大福に塩を振ると、表面のつやが曇り、黒い蜜がにじんだ。
苺の種が、最後に一度だけ、文字みたいに並びかけて――すぐに溶けて流れた。

私は流しの水を強く出し、黒い蜜を洗い流した。
甘い匂いが、ようやく消えていく。

朱音は何度も何度も、自分の名前を小声で唱えた。
まるで、消えないように、舌で確かめるみたいに。

「……これ、誰が……」

朱音の問いに、私と紫苑は顔を見合わせた。

答えは、まだない。



朱音が帰宅後、西川家に残ったのは、私と紫苑と、黒い箱だけだった。

箱は、もうただの空箱――のはずなのに。

ふたの裏の文字が、すっと滲んだ。

『次の素材:東條紫苑』

私の背中に、冷たいものが走る。

「……は?」

紫苑が、動かない。
完璧な顔が、ほんの少しだけ、凍っていた。

「あなたの名前、素材にするってさ。……いい趣味してるよね」

私は箱をひっくり返し、底を見た。
苺の印。西川洋菓子店のマークに似ている。
そして、その下に、かすれた朱の痕。こちらは、東條家の家紋に似ている。
……でも、どこか歪んでいる。

「偽装だ」

紫苑が言う。

「誰かが、東條を知ってる。……そして、西川も」

「つまり、犯人、スイーツ界のストーカー?」

「君の言い方は軽いが、概ね合っている」

紫苑が、珍しく私の冗談に乗った。

私は拳を握った。甘い匂いの中で、心臓だけが冷たい。

「……だったらさ。こっちから行く」

「無謀」

「無謀じゃない。宣戦布告。――大好きなスイーツで人を傷つけるなんて、見過ごせない。そうでしょ、相棒?」

紫苑は一拍置いて、目を細めた。

「……相棒、ですか」

「なに。イヤ?」

「いや、光栄です」

紫苑はため息をつきながら、でも口元だけ少し上げた。
中二のくせに、ビジネス口調。

私は笑って、塩の小瓶を握った。

「じゃあ、次のホラースイーツ。召し上がってやろうじゃん」

甘いのに、背中が冷える。
ここから、まさかあんな事件に巻き込まれるなんて、この時はまだ気づきもしなかった。
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