恋をしない秘書と恋に落ちた御曹司の甘くて危険な攻防戦

始まりの予感

――パンパンッ

「皆さん、聞いてください!」

 秘書室に、室長の張りのある声が響き渡った。仕事の手を止め、秘書課のメンバー全員が一斉に顔を上げる。

「室長、どうされましたか?」

 応じたのは秘書課のボス――社長秘書の草薙だった。全身をブランド物で固め、隙のないメイクと完璧に整えられた身なり。頭の先から指先まで抜かりのない、自信に満ち溢れた女性だ。

「ご報告があります。明日、社長の長男である要様が帰国され、副社長に就任されます」
「えっ、社長の長男の要様って、あのイケメンって噂の?」
「御曹司じゃない!」
「副社長だって~それって玉の輿じゃない?」

 一気にざわめく秘書課。
 社長の息子――海外の大学を卒業後、現地のグループ会社で実績を上げてきた人物だ。“イケメンで仕事ができる”という噂だけが一人歩きし、その素顔を知る者はほとんどいない。

 だからこそ、この帰国は玉の輿を狙う秘書課の女性たちにとって、またとない好機だ。それだけでなく、きっと社内の女性が盛り上がり大騒ぎするに違いない。

 そんな盛り上がりを見せる中、ひとりだけ温度の違う存在がいる。

 黒髪のロングヘアをきっちりとひとつにまとめ、大きな黒縁メガネをかけた女性。秘書課の若手、橋爪みのり二十五歳だ。若手なのにその見た目から『秘書課のお局』なんて、他部署では言われている。

 秘書課に配属されると、多くの女性は次第に派手になっていくのだ。注目され、期待され、見られる環境で、もてはやされて次第に傲慢な態度が目に余る。そんな環境の中でも、配属当初から何ひとつ変わらないみのりは、ある意味で異質の存在感を放っていた。

「お静かに。副社長の秘書ですが……」

 室長の一言で、場の空気が一変する。誰もが“自分かもしれない”“自分がなりたい”と、息を潜めて次の言葉を待っていた。

 現在、役職者の専属となっていない秘書は三名。みのり以外の二人は、目を輝かせて期待を隠そうともしていない。

「では橋爪さん、お願いします」
「えっ……は、はい……」
「「ええっー!」」

 名前が告げられた瞬間、あからさまなブーイングが起こった。きっと誰が選ばれても文句は出るだろう。それでも――自分だと信じて疑わなかった二人の不満は隠しようがない。

 社長秘書の草薙をはじめ、先輩たちの表情も硬い。あわよくばと期待していた部分もあるのだろう。

(はぁ……面倒なことになったなぁ。正直、御曹司なんて勘弁してほしい)

 抜擢されたとはいえ、素直に喜べる状況ではなかった。責任ある仕事であることは理解しているし、秘書として評価されたのだと思えば嬉しくもある。

 けれど――

 秘書課にいるだけで目立つのに、噂の副社長秘書となれば、羨望を超えて嫉妬の的になることは容易に想像できた。

 神経を使う日々が増えることは、避けられそうにない。

 みのりがここまで目立つことを避けるのには理由がある。語れば長くなるが、ハーフと間違われるほど整った顔立ちは、これまでの人生でずっと嫉妬を招いてきた。

 羨ましがられる一方で、みのりは嫌な思い出しかなく、警戒心が人一倍強い。ただそこにいるだけで、媚びを売っていると言われたり、色目を使っていると言われる。このメガネスタイルに辿り着くまでの過去は、思い出したくもなかった。

 その築いてきた平穏な日常が、崩れそうな予感がしている――

 ***

 翌日――

『TOKITOグループ』本社前は、張り詰めた空気に包まれていた。

 秘書室長を先頭に秘書課の面々が一列に並び、時任要(ときとうかなめ)副社長の到着を待っている。

 受付や他部署の女性たちも、御曹司を一目見ようと集まってきていた。

 やがて、黒塗りの高級車がエントランスへと滑り込む。

 そして運転手が後部座席の扉が開いた瞬間――

「「「ゴクッ」」」

 ギャラリーの息を呑む音が、やけに大きく響いた。

 磨き上げられた革靴が地を踏み、ゆっくりと男性が降り立つ。

「「「……‼」」」

 その姿を捉えた瞬間、場が静まり返った。要の放つ圧倒的な存在感に、誰もが言葉を失い見惚れている。

 185センチの長身に、顔が小さく手足の長い均整の取れた肢体。切れ長の目を持つ端正な顔立ちは、芸能人と言われても違和感がない。

 一瞬で、その場にいた女性たちの視線をさらって虜にしていた。

「副社長、お帰りなさいませ」
「ああ」
「橋爪さん」
「は、はい……」

(室長……こんな大勢の前で名前を呼ばないで……)

 その場の視線がみのりに刺さる。

「本日より、副社長の秘書を務めていただく橋爪さんです」
「橋爪です。よろしくお願いいたします」

 深く頭を下げるが、周囲の視線が痛いほどだった。

「では、参りましょうか」
「ああ」

 室長の言葉に要は軽く相槌を打ち、それ以上何も言わず辺りをゆっくりと見渡している。要の視界に入った女性たちは目をハートにして見つめていた。

 注目されていることに慣れている要は、一瞬だけ微笑み周囲を虜にする。

「「「きゃぁ~」」」

 するとその場にいた女性たちから黄色い声が上がった。みのりはこの状況に危機感を覚え、ただ敵を増やした要を恨めしい目を向ける。

 そんな要を先頭に、室長、その後ろにみのりと秘書課のメンバーが続いてエレベーターへ向かった。大理石の床にコツコツと要の足音が響き、すれ違う女性たちの羨望と嫉妬の眼差しが突き刺さっている。

 秘書課の先輩たちは、この状況に誇らしげに背筋を伸ばして堂々としているのに、みのりだけは自然と身を縮めていた。

 エレベーターで最上階へ到着すると、要は無言で迷いなく自室へ向かう。室長とみのりはあとに続き、秘書課のメンバーは恨めしそうな顔で見ていた。

「ふぅ……」

 副社長室に入るなり、要は立派な執務デスクのイスへ深く腰を下ろし、小さく息を吐き出している。それだけの仕草なのに、不思議と絵になっていた。

 みのりは事前に室長から聞いていた要の好みに従い、コーヒーを淹れるため隣の副社長秘書室へ向かう。

 パタンと扉を閉める音が秘書室内に寂しく響き、「はぁ〜」とみのりは大きく息を吐き出した。

 背中を扉に預け目を閉じると、先ほどの光景が脳裏に蘇り、思わず身震いした。

「はぁ……」

 今度は無意識にため息まで漏れる。もう社内中に、みのりが副社長秘書になったことは知れ渡っているはずだ。考えても仕方がないと自分に言い聞かせるしかない。必死に気持ちを切り替えて手を動かした。

――コンコン

「失礼します。コーヒーをお持ち……」

 顔を上げるとそこに室長の姿はなく、座っていたはずの要が窓際に立ち、じっとこちらを見つめているではないか。

「えっと……遅くなりました。何かございましたでしょうか?」

 射抜くような視線に耐えきれず、慌ててデスクへコーヒーを置く。その間も、みのりを見つめる視線は一度も逸らされなかった。

「その格好は、俺の気を引くためなのか?」
「……はい?」

 一瞬、言葉の意味が理解できずに、思考が止まる。

(気を引くため? むしろ存在を消してほしいくらいなのに?)

「まあいい。とりあえず、俺の恋人役を任命する」
「ええっ⁉ お断りします!」

 その言葉には即答だった。迷いを見せれば、策士の要に押し切られる予感しかしない。

「即答って、何が不満だ?」
「……」

(断られると思っていない、その態度が不満なんですけど……)

「おい、黙ってないで何とか言えよ」
「それは……はっきり申し上げて、今後の仕事に支障はありませんか?」
「俺がそんな卑怯な男に見えるか?」

 恋人役を立てることが、すでに卑怯ではないのだろうか。しかも断られないと思っていることが、傲慢だと思った。

「では、その言葉を信じて遠慮なく申し上げます。どんな事情があるのか存じ上げませんが、手近で済ませようとしないでください。正直、迷惑です。誰もが副社長の言いなりになると思わないでくださいね」

 一瞬、要が目を見開き言葉を失っている。

「……ふっ。気持ちいいくらい、はっきりと言うな。でもそれは俺には逆効果だったな。なぁ、さっきの光景を見ただろう? 玉の輿狙いの女たちの視線。反吐が出る」
「確かに……不躾でしたよね」

 虎視眈々と狙いを定める視線。要が不快に感じるのも無理はない。そこは同意する。

 ――だからといって、みのりを恋人役にすることは、どんな意味があるのだろう。嫉妬を煽るだけではないだろうか。簡単に諦めるとも思えない。

「今はそんなことで煩わされたくない」
「でしたら、良家のお嬢様と婚約とか……」
「断る! そんな嘘をついて親の耳にでも入ったら、逃げられなくなる」

 確かに家同士の話になれば、簡単には断れないだろう。

「では、早期に恋人を探されることをお勧めします」
「探す? 恋はするものじゃない、落ちるものだろう?」

 あまりに真剣な顔で言われ、言葉を失ってしまった。意外と恋にはロマンチックなイメージを持っているということだろうか。

「……はぁ、そうですか」
「その態度は、俺を馬鹿にしているのか?」
「と、とんでもございません」
「ふん。でも面白いじゃないか……」

 ぼそりと呟くと、要はみのりの前へ歩み寄った。気づけば、息がかかるほど近い距離で見つめ合う。ゆっくりと伸びてきた手が、みのりのメガネに触れて外してしまった。

「な、何をするんですか!? 返してください!」
「なっ⁉ はぁ……なるほどな……気に入った」
「はい?」

 耳元で囁かれた低い声。妖艶な表情に、思わず身体が震える。嫌な予感がして後退るが、思うように身体が動かない。

(キスされる⁉)

 ギュッと目をつぶって、手を握りしめて固まってしまう。

 次の瞬間、おでこに軽くデコピンされた。

「これから楽しみだな」

 そんな恐ろしい言葉が聞こえて、そっと目を開ける。そこには意地の悪い笑みを浮かべてみのりを見ている要の姿があった。慌ててメガネを奪い返して掛けなおしたが、ドキドキと鼓動が早鐘を打っている。

「恋人()が嫌なら、恋人候補にしてやろうか?」
「からかうのはやめてください!」
「本気だと言ったら?」
「ふざけないでください! 恋は致しません! よって恋人も不要です!」

 はっきりと誤解を招かれないように伝えた。実はみのりには、恋愛にもトラウマがある。

「くくっ……面白いじゃないか」

 その表情は、冗談とも本気とも取れない雰囲気で……

 ただ一つ確かなのは――面倒な人物に目をつけられてしまった、ということだけだった。

 副社長秘書に選ばれて、少しでも浮かれていた自分が恨めしい。

 何を考えているかわからない御曹司。そして、その御曹司に憧れる無数の視線。

 平穏だったみのりの日常は、確実に前途多難な日々へと変わっていく――
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