嘘つきと疫病神

吹き消した命

 何気ない日常とは、誰かの知らないところでいつの間にか壊される。幸せだと思っていた毎日、それがある日を境に地獄へと変わるのだ。
 暑苦しさ、鼻が曲がるほどの強い腐敗臭、ねっとりとした泥のような皮膚の感触。
『お誕生日おめでとう』
 居心地の悪さと不快感の先から誰かの声がした。その声の正体が誰なのかは分からない。
 この声は誰のものだ。聞いたことのあるような、ないような、そんな声。
『大きくなったね』
 次は声だけではなく、誰かが目の前に現れた。女の人だ。誰だかは分からないが、知らない人には思えない。
 目元に靄がかかっているが、見えている口元は笑っている。それも随分と楽しげだ。
 手を叩きながら、女はこちらに向かって何度も『お誕生日おめでとう』と言う。誰の誕生日を祝っているのか、重要な部分が抜け落ちたように理解できない。
 そっと伸ばされた手。視界全体を覆うその手が近づいてきた時、反射的に腕で顔を覆った。すべての光が遮断され、闇が広がる。
 怖い、怖い。やめて、やめて。お願い、お願い。ごめんなさい、ごめんなさい。

殴られる。

 何故だかそんな恐怖が身体を覆い始めた。蘇る痛み、罵声、鬼のように怒り狂った表情、これは誰の記憶だろう。
『蕗ちゃん』
 名前を呼ばれた。
 この女は、自分の名前を呼んだ。自分の名前を知っていた。
 自分の名前は、蕗。時雨蕗。
 蕗という名を付けたのはこの女と、もう一人、父親だった人が付けた。
 植物の蕗は春から初夏にかけて咲くとされている。初夏を過ぎた頃に生まれた蕗だが、庭に偶然生えていた蕗は真夏の太陽の下でも力強く咲いていたらしい。そんな蕗と同じように力強く生きてほしいという思いを込めて、両親は蕗という名を付けたのだといつの日か母が聞かせてくれた。
 いつからだろう、この名前が嫌いになったのは。
『お誕生日おめでとう』
 優しく頭を撫でられる感覚。しかしこんな記憶はない、母親に頭を撫でられた経験などないに等しかった。
 嗚呼、この記憶は偽物だ。自分が思い描いた理想、夢物語に過ぎないのだ。
 もし生きていれば、母はこうして優しく頭を撫でてくれただろうか。
 裕福で、不自由のない家に生まれていたのなら。戦争なんて無い平和な世界に生まれていたのなら。
 
 私はもっと、愛されたのかな。
< 105 / 132 >

この作品をシェア

pagetop