嘘つきと疫病神
第二章 おとなになる
手紙に込めた想い
───一九四四年 秋───
「ありがとうございました」
最後の客を軒先から見送り、深く下げていた頭を上げる。振り返って手を振る子供に自分も手を振り返した。
楽しげな仲睦まじい家族連れの客を最後に、昼間から絶えずあったはずの店内からは賑いが消える。
暖簾を外し店内に戻ると、薄暗い店内には鏡子だけが店仕舞いをしていた。紬と友里恵はすでに各々の家に帰った後のようである。
柳凪に住み込みで働いている蕗と、柳凪が家である鏡子以外の二人には帰る家があるのだ。
二人が何処に住んでいるのかなど蕗は知りもしないが、歩いて通えるほどの距離に家があるのだろう。
持っていた暖簾を店内の端に立て掛けていると、背後で机を拭いていた鏡子が蕗の方を見ずに言う。
「お疲れ様、もう上がってくれていいからね」
「はい。これを片付けたら休みます」
互いに視線を合わせること無く短い会話を交わすと、蕗は建物の奥にある自身の部屋に逃げるように戻った。
鏡子に引き取られ柳凪で働くようになってから十年という時が過ぎた。子供だと思っていた身体は成長し、出会った頃の鏡子の姿に少し似てきた気がする。
前掛けを外し適当に辺りに投げ捨てると、ふらりと窓辺に歩みを進めた。
つい最近気づいたことがある。蕗の部屋からは町外れにある丘が見えるのだ。部屋から丘まではかなりの距離があり、丘というよりも小さな坂道のようにしか見えないのが残念ではある。
しかし、こうして何気なく外を眺めるだけであの場所が見えるというのは、何とも嬉しいものだ。
丘を見ていると、十年も昔に恩人と交わした約束を思い出す。初めて己の本心を彼に伝えた場所が、あの丘の頂上だった。
「何をしているのかなぁ」
窓辺に座り込み、膝を抱えて外を眺める。開けっ放しになった窓からは、爽やかなそよ風が吹き込んできた。
優しい風が頬を撫でていく。窓のふちに頭を乗せ、ぼんやりと外の景色を眺める。
「もう私のこと、忘れちゃっているのかな」
たった数日という時間を同じ屋根の下で暮らし、最後には呆気なく別れてしまった人。
十年もあれば忘れることだってできた。鏡子と紬と友里恵と柳凪で働く時間は充実しているし、仕事にも慣れて今では客と離すことも苦ではなくなった。
忙しなく流れる時間に身を任せていれば、遠い過去のことなど忘れられる。
充実した時間が過去のことを何度も忘れさせようとしてくれた。だから、いつまでも過去の約束を引き摺らず忘れようとした。
「私は、忘れられないよ」
誰にも聞かれない独り言が風に流れて消えていく。窓から見える小さな丘には誰もいない。十年という時を経ても、丘は昔と何ら変わらない姿をしていた。
変わらないからこそ、忘れられないのかもしれない。いっそのこと一目見るだけでは分からないほどに変わり果ててくれれば、こうして黄昏れていても昔のことを思い出さずに済んだかもしれないのだ。
けれど、忘れたいと思っても忘れられない。忘れたいと思っても、最後には忘れたくないと思ってしまう。
何とも我が儘のようだが、世界の我が儘に巻き込まれたせいでこうして黄昏れているのだと言ってやりたいほどだ。
幸せだと思っている。姉として傍いると言ってくれた鏡子がいるから、紬と友里恵がいるから。自分は恵まれている、幸せだと思い込んでいる。
全ては自分を守るための思い込みだと分かっていても。