このほど、辣腕御曹司と花嫁契約いたしまして
過去



(メガネをかけてるけど間違いない。明都ホテルグループの都々木経営企画部長だ)

真矢は背の高い男性が玄関を入ってきてすぐ、都々木岳だと気がついた。
東京の会社の研修旅行だと聞いていたが、どうしてその中に明都ホテルグループの御曹司がいるのだろう。
疑問に思ったが、顔には出さないように気をつけた。

「ご案内いたします」

真矢は平静を装って、対鶴楼の中でも高級な部屋に向かって歩き出す。
岳たちに用意されたのは、庭園がよく見渡せると人気のある「桐の間」だ。そのため一泊でもかなりの高額になる。
そこに数日宿泊する予定だから、対鶴楼にとって上客に違いない。

岳はどうやら真矢を覚えていないようだ。ホッとしつつも残念な気がする自分の気持ちのありように戸惑った。
自分なんかを覚えているはずがないと、無理やり思い出を心の奥に押し込んだ。

桐の間に入るなり、客たちは庭のすばらしさに目を奪われていた。

「さすが、手入れが行き届いて見事なものですね」

「ありがとうございます。縁側からお庭に下りられますので、お楽しみくださいませ」

ガラス窓越しでも、庭園の美しさは伝わるようだ。下駄ばきで散策できるから、もっと喜んででもらえそうだ。

「奥に見えるのは桜ですか?」

時期的に葉桜になっているが、その幹の太さに驚いたようだ。

「あちらは樹齢三百年以上といわれている、しだれ桜でございます」

「三百年ですか。すごいですね」
「この次はぜひ、お花見の時期にお越しください」

チラリと岳を見ると、どうやら電話中らしい。
こちらに背を向けて話しているので、しだれ桜の話は聞こえていないようだ。

真矢は備品の説明をしたり上着を預かってハンガーにかけたりしてから、茶の用意をした。

「では、ごゆっくりおくつろぎくださいませ」

正座して深く頭を下げる。
岳はまだ話し中だ。なるべく視線を向けないようにして、真矢は部屋を出た。

一年ちょっと前まで、真矢は明都ホテル銀座に勤めていた。だから都々木岳だとすぐにわかったのだ。

あの頃の真矢は紺色のビジネススーツを着ていたし、髪も今のようにまとめず長く伸ばしていた。
仲居の姿とはかなり印象が違うはずだ。

(もうあの頃の私じゃない)

廊下を歩きながら、真矢は甘くて苦い記憶をたどっていた。





< 12 / 141 >

この作品をシェア

pagetop