このほど、辣腕御曹司と花嫁契約いたしまして
現実
ぼんやりと東京での日々を思い出している余裕はない。
なにしろ対鶴楼を守るために働いているのだから、真矢は仕事に生きているといっていいだろう。
真矢が次々に訪れる客を部屋に案内して、またロビーに戻ってくることをくり返していたら、小さく自分を呼ぶ声が聞こえた。
「まーちゃん」
この愛称で真矢を呼ぶのは、今ではたったひとりだけだ。
「和真、配達?」
「うん」
土産物などを置いてる売店コーナーに、弟の和真の姿があった。和菓子屋の職人らしく、作務衣に和風の前掛け姿だ。
もう真矢よりずいぶん背が高くなっているのに、弟は小学生の頃のように「まーちゃん」と呼ぶ。
周りに誰もいない時など限られてはいるが、両親から呼ばれてた懐かしい愛称だ。
子どものころはなかなか会うことができなかったが、真矢がこの町に戻ったことでようやく失っていた姉弟としての時間が戻ってきた。
和真は高校を卒業して大阪の製菓学校で学んだあと、遠藤の祖父のもとで修業中だ。
もともと手先が器用だったようで、和菓子作りには向いていると期待されているらしい。
和真は対鶴楼にも毎日のように配達に来るが、和文字堂の商品を置くだけでなく、きちんと並べて売れ行きまで確認している。
そんなところも仕事熱心な和真らしい。
「売れ行きが好調みたいね」
和文字堂の人気商品は屋号にもなっている銘菓「和文字」だ。
上品なこしあんを求肥で包み、ごく薄くパリっと焼いた生地で挟んで「和」の文字を焼き印しているのが特徴だ。
丸い形が縁起がいいといわれ、生地を紅白にしたものはこの地方では引き出物にも使われるくらいだ。
「姉さんのアドバイスのおかげだよ」