このほど、辣腕御曹司と花嫁契約いたしまして
願い




翌日、真矢は少し早めに家を出た。
真矢が住んでいる古い借家は、対鶴楼から歩いて五分くらいの距離にある。
もう少し離れた場所にしたかったが、急に呼び出された時のことを考えてここに決めたのだ。
ひとりで暮らすのには広かったが、格式のある格子戸と花木のある中庭が気に入って借りた家だ。
忙しい毎日でも掃除だけはきちんとしているし、一年も住めば大切なわが家になっている。

旅館の正門から少し離れた場所で待っていたら、すぐに岳がやってきた。ジャケットの下に白いポロシャツという気軽な服装だ。
リラックスした姿を見ると、ビジネスではなくお忍びで遊びに来ただけかもしれないとも思えてくる。
だが岳が対鶴楼に泊まっている目的や、熱心に町を見ている理由かどうしても気になった。

「やあ、お待たせ」
「いえ、今来たばかりです」

今日の真矢は遅番なので、カジュアルな私服姿だ。
町を案内するから、歩きやすいパンツスタイルに薄いジャケットを羽織っている。

「川沿いの表通りではなく、目立たない裏通りをご案内しますね」

観光マップに載っていない場所を目指して歩き出す。

「川沿いの柳並木で写真を撮る方が多いのですが、見ごたえがあるのは別の場所なんです」
「たとえば、どんな?」

裏通りはメインの観光地と違って土蔵壁もまっ白ではないが、逆に歴史を感じさせる重量感がある。
路地は狭いが、建物の配置が碁盤の目のように整然としているから歩きやすい。

「面白い佇まいでしょう」
「本当だ。一軒一軒に趣があるね」

何気なく玄関席に盆栽が置かれていたり、軒下で猫が丸くなっていたりする。ひなびた路地と古い木材の匂いが、なぜか記憶にあるような懐かしさを感じさせてくれる。

「こちらの通りには古い蔵を利用したカフェや、ジャズ喫茶もあるんですよ」

真矢の説明に、岳が目を輝かせた。

「あとで寄ってみたいな」

古い蔵がどのようにリノベーションされているのか見たいというから、岳は建築にとても関心があるようだ。

「古い建物がお好きなんですか?」

真矢が尋ねると、夢中で建物を見ていた岳が少し照れくさそうな顔を見せた。

「実はそうなんだ。興味が尽きないね、この町は」

左右の家をゆっくりと眺めながら、細い路地を抜けていく。
寄り添う形になったりどちらかが後ろにずれたりと気遣いながら、ふたりの距離は自然に近付いていた。




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